ハジェヴスキー・ギョキッツァ
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ハジェヴスキー・ギョキッツァ(Hadzievski Gjokica、1955年3月31日-)は、マケドニア共和国出身の元サッカー選手で、サッカー指導者。日本ではギョキッツァ・ハジェヴスキー、また本人の愛称からジョコ・ハジェヴスキー(Gjoko Hadzievski)とも表記された。
[編集] 経歴
現役時代は旧ユーゴスラビアリーグでMFとしてプレーしつつ、大学で学問としてのスポーツを勉強していた。29歳で引退後、指導者の道へと進む。イヴィツァ・オシムなど優勝な指導者を数多く輩出した旧ユーゴにあって早くから将来を期待され、1989年にはユーゴスラビア代表コーチ、1990年にはユーゴスラビアコーチ連盟会長に就任した。
1992年にユーゴから独立したマケドニアの代表監督に就任。リベロも積極的に攻撃に参加させるなどの攻撃的サッカーが持ち味で、決して戦力的に恵まれていない母国を率いて他国と渡り合った。その経験を買われて、2000年にJリーグ・ジュビロ磐田監督に就任する。
磐田では3-5-2システムへの変更や、前年のチーム得点王である福西崇史のリベロ起用など、思い切った戦術の変更を行った。2月に行われたゼロックススーパーカップに勝利し、その月のアジア最優秀監督に選ばれ、磐田では最高のスタートを切った。
しかし、ドゥンガの引退や名波浩のセリエA挑戦で元々前年に比べて戦力が低下していたところに、リーグ戦が始まると故障者が続出したことで思うように勝ち点を伸ばせず、1stステージは5位、2ndステージでも今一つ波に乗り切れないことがフロントの不興を買い、9月1日に解任された。
その後はマケドニアなどで監督としてのキャリアを続けている。
[編集] 指導者として
上記にもあるようにマケドニア代表時代から非常に攻撃的な、点を取りに行くサッカーを指向していた。磐田でも名波不在のチームをどう構成するか(前年のチャンピオンシップも既に来日、観戦していた)を考えた彼は、それまで自分が採って来た攻撃的リベロを採用するのが最適だと考え、福西をリベロとした。
そのため2000年の磐田はかなりの攻撃力を誇っていたが、守備は中盤の底に入った服部年宏が大車輪のように動き回ることが前提であったため、服部が負傷してしまうととたんに守備にほころびが発生した。また福西が上がった隙を狙う相手の作戦に有効な打開策を見出せず、結局末期は福西を中盤に戻している。
当時毎年のようにタイトルを獲得していた磐田で無冠に終わったことで評価を下げている節があるが、3-5-2システムはその後鈴木政一・柳下正明もこれを採用して2002年には両ステージ制覇を達成したこと、「リベロで守備と攻撃の両方を意識することを身に付けた」という福西が日本代表の主力にまで成長したことや、当時新人の前田遼一のFW起用を提唱したり西紀寛をサイドアタッカーとして抜擢したりしたことなどを挙げて、再評価する声も聞かれる。
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