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福西 崇史 |
名前 |
愛称 |
フク |
カタカナ |
フクニシ タカシ |
ラテン文字表記 |
FUKUNISHI Takashi |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1976年9月1日 |
出身地 |
愛媛県新居浜市 |
身長 |
181cm |
体重 |
77kg |
血液型 |
A型 |
選手情報 |
在籍チーム |
FC東京 |
ポジション |
MF |
背番号 |
37 |
利き足 |
右 |
代表歴 |
キャップ |
64 |
得点/失点 |
7 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
福西崇史(ふくにし たかし、1976年9月1日 - )は、愛媛県新居浜市出身でFC東京所属のサッカー選手。ポジションはMF。主にボランチを務める。身長181cm。体重77kg。血液型はA型。
[編集] 経歴
- 神郷小学校4年のとき、地元のサッカー教室でサッカーをはじめる。川東中学校を経て、新居浜工業高校へ。高校時代までのポジションはFWだった。
- プロサッカー選手になるきっかけとなったのは、新居浜工業高校在学中、対戦チームの選手を目当てに来ていた当時ジュビロ磐田の石井知幸スカウト(現アルビレックス新潟ヘッドコーチ)が、福西に目をとめたことだった。
- 1995年、同校卒業後ジュビロ磐田に入団。当時の柳下コーチにサテライトでボランチにコンバートされる。同ポジションのドゥンガの熱血指導を受けつつ、同年8月には早くもトップデビューする。以後、ジュビロの主軸選手の1人として、チームの心臓部を担った。
- 2000年に就任したギョキッツァ・ハジェブスキー監督は、福西をリベロに配置した。残りのDFを置き去りにして勝手に前に出て行くことが多く、守備システムのバランスを崩してしまったが、彼自身の守備のセンスにはこのポジションの経験によって磨かれた。
- 2002年、日韓ワールドカップのメンバー選出され、第2戦のロシア戦に初出場した。
- ジーコ監督率いる日本代表チームでは、稲本潤一の離脱により、若手有望選手が多数ひしめき、激戦区となっていたボランチのレギュラーを勝ち取り、重用され活躍した。2006年、2度目となるドイツワールドカップでは3試合中の2試合にスターティングメンバーとして出場を果たした。
- 2007年、シーズンに向けてクラブとの契約交渉に臨んだが、ワールドカップへの出場や若いチームをまとめるリーダー的な活躍にも関わらず、フロントが提示した金額は異例のダウン提示であった。更に往年のジュビロ磐田のポゼッションサッカーを理想とする彼のサッカー観と、現在のアジウソン監督のサッカー観にはかなりの開きがあるなどの問題が重なったため、魅力的な攻撃サッカーを提唱する原監督に誘われてFC東京へ完全移籍した。
[編集] プレイスタイル
- 少年時代は器械体操の選手だったことが、今日のサッカー選手としての福西にも少なからぬ影響を及ぼしている。すなわち柔軟でバネがあり、優れたバランス感覚を持っており、相手選手からの激しいコンタクトに対して簡単に倒されない。しかし、腕でバランスを取る癖があり、「故意の肘うちをしている」と指摘されることや「ボールが手に当たった」として、ハンドの有無が物議を醸したことも何度かある(1997年の柏戦、2005年の横浜FM戦)。
- もともとFWで、現在でも前目の攻撃的な位置で起用されることがしばしばあるように攻撃センスがあり、特に驚異的なジャンプ力を生かしたセットプレー(CK・FK)からの得点が多い。1999年のリーグ戦では、名波のCK・FKからヘディングと言う形での得点が目立ち、10得点をあげた。またジーコ監督の日本代表チームであげた6得点のうち、4得点をヘッドで決めている。中でも印象的だったのは、2004年8月7日に行なわれたアジアカップ決勝戦(日本対中国-北京工人体育場)で、均衡を破る先制点として奪ったヘディング・シュートである。中村のFKから、ファーサイドで鈴木がヘッドで折り返したボールを相手ゴール正面で叩きつけた。
- ヘディングが得意な割には足でのシュートは上手いとはいえない。自身でも自覚しているのか、ゴール前までドリブルで前進したものの、シュートを打たずにパスしたり足元でこねてしまったりすることも決して少なくない。同僚の中山雅史は「左足のシュートがうまくない」と指摘している。
- 同ポジションによく見られる運動量を武器にした選手とは一線を画す「動かなさ」も特徴。身体能力や、師匠格であるドゥンガ同様に「読み」で相手を止めてしまう。ただ動かないのは本人が「正直運動量を求められるとつらいです」と吐露するなど、元々持久力などには欠けているためでもあり(日本代表での持久力テストでは下位の常連である)、ピンチでも歩いていたり、また劣勢の試合では攻撃に参加したまま自陣に戻ってこないことも多々あり、かつて磐田の指揮官だった柳下正明には「集中力が足りない」と苦言を呈されたこともあった。名波浩は雑誌のインタビューで「彼にアドバイスすることはもうないが、敢えて言うなら『動け』」「福西は『動かないボランチ』像を確立した」と語っている。
[編集] エピソード
- 体操経験者だけに、ストレッチや器械体操系の動きを自然としてしまう癖があるらしい。
- 息子が2人、長男に「たかし」と呼び捨てにされたことがある。また、家族をとても大切にしており、本人も「趣味は家族サービス」と言い切るほどである。
- 2004年以降代表での活躍が著しく、女性ファンからの黄色い声援が絶えない。福西本人は自分が既婚者で、子供もいることが知られてないのでは、と語ったことがあった。
- 武田修宏の紹介で、夫人と知り合った。
[編集] 個人成績
年度 |
チーム |
リーグ |
背番号 |
リーグ戦 |
カップ戦 |
天皇杯 |
J・J1 |
J2 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
1995年 |
磐田 |
J |
- |
10 |
1 |
- |
- |
0 |
0 |
1996年 |
磐田 |
J |
- |
27 |
2 |
- |
10 |
0 |
1 |
1 |
1997年 |
磐田 |
J |
23 |
21 |
4 |
- |
6 |
1 |
3 |
1 |
1998年 |
磐田 |
J |
23 |
22 |
5 |
- |
5 |
1 |
3 |
0 |
1999年 |
磐田 |
J1 |
23 |
27 |
10 |
- |
3 |
1 |
0 |
0 |
2000年 |
磐田 |
J1 |
23 |
27 |
5 |
- |
4 |
0 |
3 |
0 |
2001年 |
磐田 |
J1 |
23 |
29 |
4 |
- |
7 |
0 |
2 |
0 |
2002年 |
磐田 |
J1 |
23 |
28 |
5 |
- |
1 |
0 |
3 |
0 |
2003年 |
磐田 |
J1 |
23 |
26 |
5 |
- |
8 |
0 |
0 |
0 |
2004年 |
磐田 |
J1 |
23 |
26 |
6 |
- |
0 |
0 |
5 |
0 |
2005年 |
磐田 |
J1 |
23 |
23 |
2 |
- |
1 |
0 |
2 |
1 |
2006年 |
磐田 |
J1 |
23 |
26 |
7 |
- |
1 |
0 |
3 |
1 |
2007年 |
FC東京 |
J1 |
37 |
|
|
- |
|
|
|
|
通算 |
292 |
53 |
- |
46 |
3 |
25 |
4 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 1999年 コパ・アメリカ パラグアイ大会
- 2002年 FIFAワールドカップ 韓国・日本大会
- 2003年 東アジア選手権 日本大会
- 2004年 AFCアジアカップ 中国大会
- 2005年 東アジア選手権 韓国大会
- 2006年 FIFAワールドカップ ドイツ大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 64試合 7得点(1999-2006)
年度 |
試合 |
国際Aマッチ |
出場 |
得点 |
1999年 |
(7) |
3 |
0 |
2000年 |
(18) |
0 |
0 |
2001年 |
(13) |
2 |
0 |
2002年 |
(13) |
10 |
0 |
2003年 |
(16) |
6 |
0 |
2004年 |
(22) |
18 |
5 |
2005年 |
(20) |
14 |
1 |
2006年 |
(19) |
11 |
1 |
通算 |
64 |
7 |
[編集] 個人タイトル
[編集] 外部リンク