ジュビロ磐田
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ジュビロ磐田 | |
原語表記 | ジュビロ磐田 |
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愛称 | ジュビロ |
クラブカラー | サックスブルー(水色) |
創設年 | 1972年 |
所属リーグ | Jリーグ |
所属ディビジョン | ディビジョン1 |
ホームタウン | 静岡県磐田市 |
ホームスタジアム | ヤマハスタジアム |
収容人数 | 16,893 |
代表者 | 右近弘 |
監督 | アジウソン |
ジュビロ磐田(じゅびろ いわた、Júbilo Iwata)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] クラブの概要・歴史
1994年Jリーグ加盟。会社はヤマハ発動機など地元磐田市周辺企業が出資して設立された。正式な会社名は株式会社ヤマハフットボールクラブ。ホームタウンは静岡県磐田市。ホームスタジアムはヤマハスタジアム(旧・ジュビロ磐田スタジアム)。練習は同市内にあるヤマハ大久保グラウンドと、隣接する磐田スポーツ交流の里・ゆめりあが使用されている。チーム名の「ジュビロ」はポルトガル語(Júbilo)・スペイン語(Júbilo)・イタリア語(Giubilo)で歓喜の意味。
1992年末にJリーグ準会員に加盟。1993年にJFL1部で準優勝し、1994年からJリーグ昇格。元日本代表監督ハンス・オフトを迎え、オランダ代表ファネンブルグ、元イタリア代表スキラッチ、ブラジル代表ドゥンガなど大物外国人選手の補強が相次いだが、次第に日本人選手の育成にシフト。レギュラー選手を固定化することで高度なチーム連携を実現。
1997年の2ndステージで初優勝。チャンピオンシップでは、この年のリーグ戦、ナビスコカップを通じて4連敗中だった(しかも直前のナビスコカップ決勝第2戦では1-5の完敗)鹿島アントラーズを中山雅史の活躍により破り初の年間王者に輝いた。1998年は爆発的な攻撃力により1stステージ優勝、2ndステージ2位、ナビスコ杯優勝の成績を残すも、チャンピオンシップで鹿島に昨年の借りを返され連覇はならなかった。この年のリーグ戦で記録した年間107得点(1試合平均3.15点)、得失点差プラス68は現在も破られていない。1999年は1stステージの優勝によりチャンピオンシップに出場し、清水エスパルスを破り2度目の王者に輝いたものの、2ndステージは12位に終わっており、中山らは「年間を通して安定した戦いをしたのは清水だ」と語っている。この年はアジアクラブ選手権にも出場(優勝)しているため過密日程だった。
2000年はステージ優勝はなかったものの、ゼロックススーパーカップで初優勝。年間順位は4位だったが純粋な勝ち点による順位は柏レイソルに次ぐ2位だった。2001年は開幕8連勝の勢いで1stステージ優勝。2ndステージも好調で初の完全優勝を期待されたが鹿島に次いで2位に終わる。チャンピオンシップではその鹿島と激闘を繰り広げたが延長の末敗れる。ナビスコ杯も準優勝だったため、圧倒的な年間成績(26勝3敗1分)にもかかわらず無冠のシーズンだった。2002年は前年の悔しさを晴らすべく勝ち続け、遂にJリーグ史上初のリーグ戦前後期優勝を成し遂げた。この年の年間成績は昨年と全く同じだった(26勝3敗1分)。ベストイレブンには94年のヴェルディ川崎に並ぶ同一チームからは史上最多タイの7人が磐田から選ばれた。余談ではあるが、当時アジア最高の中盤と呼ばれた、いわゆる「N-BOX」による華麗なボール回しによって、Jリーグでの圧倒的なまでの強さを誇っていた事や(01年、02年は年間総合順位で2位に勝点15以上の差をつけた)、現在JリーグのクラブがACLのグループリーグすら突破出来ない状況でありながら、ACLの前身であるアジアクラブ選手権で3年連続決勝進出(ACLを含めてこの記録は破られていない)を果たすなどの実績から、この時期のジュビロ磐田をJリーグ史上最強のチームであるという意見は未だ根強い。
2003年は鹿島に代わる新たなライバルとして岡田武史率いる横浜F・マリノスと覇権を争った。開幕戦でいきなり両者が激突し横浜が4-2で快勝した。結果的にこの試合がシーズン最終戦まで響くことになる。1stステージは横浜に勝ち点1及ばず2位。2ndステージは14節の時点で首位に立ち、横浜との最終戦を迎える。磐田は引き分けでも優勝が決まり、しかも横浜が10人で有利な状況だったが、1-1の後半ロスタイムに久保竜彦に劇的な決勝点を決められ敗れる。この結果横浜、磐田、市原が勝ち点で並んだが得失点差で横浜が2ndステージ優勝。同時に昨年の磐田に続くリーグ戦前後期優勝を達成した。磐田は年間成績で勝ち点1差の2位。ゼロックススーパーカップと天皇杯を制しタイトルは獲得した。
2004年の1stステージでは昨年に続き横浜と優勝争いを演じたが勝ち点2差の2位に終わり、横浜が3ステージ連続優勝の快挙を成し遂げた。この1stステージの2位以降、磐田はリーグ戦では優勝争いから完全に遠ざかることになる。名波浩(現:東京ヴェルディ1969)や、藤田俊哉(現:名古屋グランパスエイト)など、優勝に貢献した中盤の選手の平均年齢が上がったこと、育成を重視し補強に積極的ではなかったことなどから、2004年の2ndステージでは13位と低迷。2005年にはジェフ千葉から村井慎二や茶野隆行のふたりに加え、デンマークリーグ・ノアシェランで不遇を託っていた日本代表GKの川口能活を獲得するなど、久々の大型補強を敢行してストーブリーグを沸かせた。しかしベテランと若手をうまく融合させたアグレッシブなチーム、とまでは至らず、早々と優勝戦線から脱落した。この年、結果的には年間6位とまずまずの成績ではあった。
だが、2006年もワールドカップによる中断までの順位は暫定11位(ガンバ大阪がACLに参加した関係で消化試合数が1試合少ない)と低迷した。更にナビスコ杯準々決勝で敗退(6月8日)した直後に2004年2ndステージ途中から2007年までの3年契約を結んでいた監督の山本昌邦が辞任。五輪日本代表監督だった山本は磐田でのコーチ経験も長く、磐田にとっては切り札的存在だっただけに任期途中での辞任は残念な結果となった。後任には黄金時代に選手として所属し、ブラジルの若手監督として評価を高めつつあるアジウソンをコーチ陣と共に招聘し、巻き返しを図った。アジウソンの采配は日本では通用しないと名波浩などに酷評されたものの(例えば、守備時にはボランチをリベロの位置まで下げてプレーさせるというものなど)、結果としては浦和レッズ、ガンバ大阪、川崎フロンターレの上位3チームを撃破するなどして、5位浮上を成し遂げた。仮に2シーズン制であれば2ndステージ2位と順位では大健闘である。しかし後述する若手の起用もあってか、90分間一本調子になる傾向や内容の伴わない試合も多く、立て直し途上の感も強い。
最近はメンバーの若返りを見据えた方針から、ジュビロの黄金期を築き上げた選手達(ベテラン)の流出が目に付く。例として藤田俊哉(現:名古屋グランパスエイト)、名波浩(現:東京ヴェルディ1969)、服部年宏(現:東京ヴェルディ1969)、福西崇史(現:FC東京)等が挙げられる。しかし、その一方で若返り策は一定の効果を示しており、特に、カレン・ロバート、前田遼一、太田吉彰、犬塚友輔、菊地直哉、上田康太等の選手は徐々にレギュラーに定着しつつある。
「サッカー王国」といわれる静岡県の中でも傍流である西部の一地方都市に拠点があること、また親会社であるヤマハ発動機が健全財政を方針としていることもあり、資金面では必ずしも恵まれていない。日本人選手育成にシフトしたり、積極的な補強を2005年まであまりしてこなかった背景にも、資金面での問題が影を落としている。それでも多くの有力な新人選手を獲得しているが、上記のように現在クラブは過渡期に差し掛かっており、2003年天皇杯を最後にタイトルから遠ざかっている。
磐田はJリーグのMVPを4人(97年ドゥンガ、98年中山雅史、01年藤田俊哉、02年高原直泰)、得点王を3人(98年中山雅史、00年中山雅史、02年高原直泰)輩出している。いずれもチームとしては最多である。さらにリーグ通算の勝利数で鹿島に次ぐ2位(勝率は1位)、ステージ優勝6回とJリーグ史上最も成功したチームの一つであると言え、Jリーグの創生10クラブ、いわゆる「オリジナル10」以外でステージ優勝・年間優勝を経験しているのは磐田のみである。ただリーグ戦では年間を通して圧倒的な成績を収めるものの、カップ戦などの短期決戦に勝負弱いイメージがあり、事実、前後期制覇を成し遂げた2002年でさえも、ナビスコカップでは鹿島の前に敗れた。天皇杯に関しても03年、04年と連続で決勝に進出したが、黄金時代真っ只中の97年~02年の間は決勝に進出したことはなく、ベスト4に残ったのも1度だけである。そのため鹿島やヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)に比べてタイトルの獲得数は少ない。鹿島とは長らくライバル関係にあったが、直接対決は圧倒的に分が悪い(9勝17敗4分)。しかし鹿島が苦手にしている清水には相性がいい(18勝10敗2分)などチーム別の対戦成績で磐田に勝ち越しているのは上記の鹿島のみである。タイトル獲得数では及ばない鹿島にたいしても、過去Jリーグ14シーズンのうち年間総合の勝点では磐田の方が上回った年が9回あり、安定した成績を残してきたことの裏付けといえる。事実、年間総合順位はJ参入元年の94年の8位が最低であり、それ以降は6位より下に落ちたことはない。
チームの大黒柱として多くのファンに愛されたMF福西崇史が、前年より大幅減で提示された年俸への不満およびアジウソン監督とのサッカー観の違いを理由に退団、2007年1月22日FC東京に加入した。チーム屈指の人気を誇った福西の移籍により、サポーターの減少によるチケット収益、グッズ販売収益等の大幅減収が予想され、今後のチーム運営に影響を及ぼしかねない深刻な損害も懸念される。
地元での「いわた」は、「い」にアクセントを付けて発音されるが、放送局でジュビロ磐田を紹介する際は、平滑に発音される為、地元で呼ばれる表現と異なってしまうことが多々ある。標準語での発音が正しいと認識されてしまう為、現在でも間違ったまま表現される事がある。
女子サッカー「ジュビロ磐田レディース」(静岡県西部リーグ)、フットサル「ジュビロフットサルクラブ」もあり。
初代監督だった長澤和明は、女優長澤まさみ(地元磐田市出身)の父である。
[編集] タイトル
[編集] 国内タイトル
[編集] 国際タイトル
- アジアスーパーカップ:1回
[編集] 個人別タイトル
- 1996年 名波浩
- 1997年 大神友明、ドゥンガ、名波浩、中山雅史
- 1998年 田中誠、奥大介、ドゥンガ、名波浩、藤田俊哉、中山雅史
- 1999年 福西崇史
- 2000年 中山雅史
- 2001年 ヴァンズワム、大岩剛、服部年宏、福西崇史、藤田俊哉
- 2002年 鈴木秀人、田中誠、名波浩、福西崇史、藤田俊哉、高原直泰、中山雅史
- 2003年 福西崇史
- 2006年 川口能活
[編集] クラブのエピソード
[編集] 清水FC(エスパルス)との統合計画
- Jリーグ加盟に際して、ヤマハサッカー部も当初は初年度からの加盟を目指そうとした。しかし、静岡県中部にある清水市(現・静岡市)からも市民組織のクラブチーム・清水FC(エスパルスの母体)が結成され、Jリーグ加盟を目標に立てていた。
- だが全国大会の出場歴が全くなく、資金や選手補強などの面で劣る清水FCに対し日本サッカー協会のプロ化検討会は経営資金力強化、並びに当時は静岡県に複数のチームを加盟するのは時期尚早ということでヤマハサッカー部とのチーム統合を提案するが、ヤマハはあくまでも単独チームでのJリーグ参加を目指していることからこれを拒否。
- またヤマハ自体もプロチーム設立へ向けた法人化の手続きや、ホームスタジアムの整備などの準備面で清水に遅れをとったのが災い、結局初年度参加メンバーから落選することになる。ヤマハはこの後1992年に地元企業やマスコミ団体などとの協力によりプロ化を念頭に置いた「株式会社ヤマハフットボールクラブ」を設立し、1993年に旧JFLからJリーグ昇格の権利(JFL2位以内)が与えられる準会員制度の適用第1号(他日立→柏レイソル、フジタ→湘南ベルマーレ)となり、その年の旧J1準優勝でJリーグの切符を獲得したのである。
[編集] 代行監督で日本一
ジュビロ磐田の基礎を固めたハンス・オフトは1996年シーズンを持って勇退した。 彼は育成型監督であり、目の前の状況に対応する方法は持ち合わせていなかった。またオランダ人特有のパスを流麗に廻すサッカーを志向するが、フィニッシュのアイディアに乏しく、規律に拘るあまりチャレンジを避ける攻撃に、周囲が行き詰まりを感じていた。オフト自身もこの点をよく承知しており「今度は南米の監督を招請した方がよいと思う」とのアドバイスをフロントに残していったため、磐田フロントはブラジルの名門・グレミオを南米王者に導いたルイス・フェリペ・スコラーリを監督として招聘した。
ブラジル南部では華やかなサッカーよりも激しいフィジカルコンタクトをいとわない、アルゼンチン的なサッカーの流れがあり、それがフェリペのサッカーの下地である。直前に監督をしていたグレミオも強固でアグレッシブな守備と、そこからのスピードを生かしたカウンター攻撃のチームだった。そうしたエッセンスを磐田に持ち込み、オフトが構築したパスサッカーの遺産の上に、攻撃の際のチャレンジ・玉際の強さ・激しさ・狡猾さ等を新たに植え付け新しいチームを作りつつあった。しかし、第1ステージの第11節終了後の5月下旬、パルメイラスからのオファーに抗しきれずに退任してしまった。内部での衝突もあったと言われている。
そこで、それに代る新監督が見つかるまでの指揮者として、前年(1996年)にチームの強化アドバイザーに就任、フェリペの下ではヘッドコーチ格を勤めていた桑原隆を起用することとした。しかし、桑原は当時正式な監督として登録するに必要な公認S級指導者ライセンスを保持していなかったため、代行監督という形で指揮を執ることになった。その桑原代行監督は、U-20日本代表チーム監督から復帰した山本昌邦をヘッドコーチに迎え、「フェリペの守備・オフトの中盤・桑原の前線」(桑原談)の3つをミックスしたチームを作り上げ、この年の第2ステージで待望の初タイトル獲得。年末のチャンピオンシップでも中山雅史の3ゴールを挙げる活躍で鹿島アントラーズを下し、見事Jリーグの頂点に登りつめ、ジュビロ黄金時代をスタートさせた。
桑原は翌1998年にS級ライセンスを取得。1999年、2004年にそれぞれ1シーズンずつ正式な監督として登録された。
[編集] 大久保グラウンド
ジュビロのトップチームの練習会場である大久保グラウンドは、元々はヤマハ発動機野球部(現在はクラブチーム登録)の本拠地として使用された野球場だった。その後ジュビロがJリーグ昇格を果たすと野球部がここから撤退し、事実上のジュビロ専用グラウンドとして使用されるようになった。(現在はラグビーチームのヤマハ発動機ジュビロも使用)その野球場時代の名残りからベンチルームの一部やバックスクリーン(現在はマスコットとロゴマークが貼り付けられている)がそのまま残っている。バットなども残っているらしく、選手たちが練習の終わったあとにリラックスするために使ったりもしている。また現在はグラウンドに併設する形でクラブハウスが建っている。
クラブハウスが出来る前は1塁ベンチでトップ選手が着替えを行っていたと言われている。現在もチームとA契約(出場規定の450分に達している選手)を結んでいない選手は1塁ベンチ横の小部屋で着替えを行っている。
[編集] 新スタジアム構想
- ジュビロは、ヤマハ発動機東山総合グラウンドを増築・改修したヤマハスタジアムを現在ホームスタジアムとしているが、Jリーグ昇格を目指していた1993年頃、県西部の中核都市である浜松市に隣接した浜北市(現在は浜松市の一部)との広域ホームタウン化計画を持っていた。
- 静岡県西部ではヤマハスタジアムの他にアキュートホンダFCの都田グラウンドや静岡県遠州灘海浜公園球技場が全国規模のサッカーリーグで使用されていたが、ヤマハスタジアム以外はJリーグ規格(15,000人以上収容)のスタジアムではなく、また施設の用地スペースや遠州灘海浜公園の場合は周囲がアカウミガメの産卵地であることから夜間照明設備を設置することができないなどの理由でJリーグ規格に作りかえることが困難だった。また、ヤマハスタジアム自体も周辺にヤマハ発動機の本社工場オフィスや福利厚生施設などがあるため、スタンド増築(現在は16,893人収容)にも限界があった。
- そこで、浜松市郊外の旧浜北市に3-5万人収容規模のサッカー専用スタジアムとアリーナ(体育館)、商業施設を兼ね備えた本格的な複合施設を建設し、それをジュビロのホームスタジアムの一つに加える計画を持っていた。
- またこれと時を同じくして、ジュビロのホームタウンである磐田市でも3万人収容規模の新スタジアム建設計画が持ち上がっていた。
- ところがその後の長期不況により行政の予算が制限されたことや、ワールドカップ日韓大会(2002年)で使用するスタジアムとして、磐田市に隣接する袋井市と掛川市の市境にエコパスタジアムが建設されたことなどもあって、その計画は頓挫してしまった(この件についてはNHK総合テレビ・クローズアップ現代など数多くのテレビ番組でも取り上げられた)。
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- チームカラーはサックスブルー
[編集] ユニホームスポンサー
【国内試合用】2006年-
【国際試合用】(AFCチャンピオンズリーグなどクラブチーム間での国際公式戦に使用。規定上親会社以外のロゴマークを露出することが出来ないためである)
- 胸 ヤマハ発動機
- 袖 無し
- 背番号 選手名
- パンツ 無し
- ※ネスレ日本と磐田との関係は深く、Jリーグ昇格の1994年から2005年の長期にわたって胸スポンサーであった。更に過去に1994年~95年に背番号、袖部分にはネスレの関連商品が独占的にスポンサーとして名を連ねたことがあった。1996年-1997年は袖はヤマハに変わったものの、やはりそれ以外は全てネスレ関連商品だった。現在の、特殊な漢書体による「飯田産業」のロゴは、かつてのベガルタ仙台の「カニトップ」と並び、Jリーグでも屈指のインパクトを与えている。
- 袖 キットカット(1996年のみ背中)
- 背番号 ブイトーニ(スパゲティー、1994-1995年,1997年)
[編集] 過去のユニホームスポンサー
[編集] ユニホームサプライの遍歴
[編集] 歴代監督
長澤和明 | 日本 | 1991-1993 |
ハンス・オフト | オランダ | 1994-1996 |
ルイス・フェリペ・スコラーリ | ブラジル | 1997.2-1997.5 |
桑原隆 | 日本 | 1997.6-1997.12(監督代行) |
バウミール | ブラジル | 1998 |
桑原隆 | 日本 | 1999 |
ハジェヴスキー | マケドニア | 2000.2-2000.9 |
鈴木政一 | 日本 | 2000.10-2002 |
柳下正明 | 日本 | 2003 |
桑原隆 | 日本 | 2004.2-2004.9 |
鈴木政一 | 日本 | 2004.9-2004.11 |
山本昌邦 | 日本 | 2004.11-2006.6 |
アジウソン | ブラジル | 2006.6- |
[編集] 異競技交流
- 2003-2004年度シーズンから開幕したジャパンラグビートップリーグのヤマハ発動機ラグビー部も「ヤマハ発動機ジュビロ」として出場している。(プロフィルは当該項参照されたい)
- 磐田市内のヤマハ系オートバイ販売店が「いわたトンボレーシングチーム・ジュビロ」の名称で1994年-2000年の鈴鹿8時間耐久ロードレースに参加していた事がある。応援が縁で同チームのキャンギャルと結婚したジュビロ所属選手もいた。現在ではヤマハ発動機本社サービス室が管轄するレーシングチーム「Jubilo Racing Team」として、全日本ロードレース選手権(ST600クラス)、全日本モトクロス選手権に参戦。ロードレースチームは、往年のスターライダー藤原儀彦が監督を務め、チームカラーのサックスブルーをまとった「YZF-R6」がサーキットを走っている。[1]
- レディーススポーツクラブではバレーボール・エアロビクス教室も開いている。
[編集] Jリーグ対戦通算成績(2007年 第4節終了時)
[編集] J1対戦通算成績
対戦チーム | 勝ち | 引分 | 負け |
鹿島アントラーズ | 9 | 4 | 17 |
浦和レッズ | 17 | 1 | 10 |
大宮アルディージャ | 3 | 0 | 1 |
ジェフユナイテッド市原・千葉(←ジェフ市原) | 16 | 5 | 10 |
柏レイソル | 14 | 2 | 9 |
FC東京 | 10 | 2 | 3 |
川崎フロンターレ | 4 | 0 | 2 |
横浜F・マリノス(←横浜マリノス) | 17 | 0 | 13 |
横浜FC | 0 | 0 | 0 |
ヴァンフォーレ甲府 | 1 | 1 | 0 |
アルビレックス新潟 | 5 | 0 | 1 |
清水エスパルス | 18 | 2 | 10 |
名古屋グランパスエイト | 16 | 3 | 11 |
ガンバ大阪 | 18 | 2 | 10 |
ヴィッセル神戸 | 14 | 4 | 0 |
サンフレッチェ広島 | 16 | 1 | 11 |
大分トリニータ | 7 | 1 | 1 |
コンサドーレ札幌 | 6 | 0 | 0 |
ベガルタ仙台 | 3 | 1 | 0 |
東京ヴェルディ1969 | 18 | 1 | 9 |
湘南ベルマーレ | 8 | 0 | 8 |
京都サンガF.C. | 14 | 1 | 1 |
セレッソ大阪 | 15 | 2 | 7 |
アビスパ福岡 | 11 | 1 | 2 |
横浜フリューゲルス | 9 | 0 | 5 |
合計 | 269 | 34 | 141 |
[編集] 開幕戦
- 1994年03月12日 VS鹿島アントラーズ(0-1 負け)
- 1995年03月18日 VSジェフ市原(0-1 負け)
- 1996年03月16日 VSアビスパ福岡(3-0 勝利)
- 1997年04月12日 VSサンフレッチェ広島(2-1 負け)
- 1998年03月21日 VS京都パープルサンガ(2-1 勝利)
- 1999年03月06日 VSヴィッセル神戸(3-1 勝利)
- 2000年03月11日 VS柏レイソル(0-1 負け)
- 2001年03月10日 VSジェフ市原(4-1 勝利)
- 2002年03月02日 VS名古屋グランパス(2-0 勝利)
- 2003年03月21日 VS横浜Fマリノス(2-4 負け)
- 2004年03月13日 VS東京ヴェルディ(2-0 勝利)
- 2005年03月05日 VS横浜Fマリノス(1-0 勝利)
- 2006年03月05日 VSアビスパ福岡(1-1 引き分け)
- 2007年03月04日 VS柏レイソル(0-4 負け)
[編集] カップ戦成績
[編集] ナビスコカップ
- 1994年 準優勝
- 1995年 なし
- 1996年 予選敗退
- 1997年 準優勝
- 1998年 優勝
- 1999年 準々決勝敗退
- 2000年 準々決勝敗退
- 2001年 準決勝敗退
- 2002年 準々決勝敗退
- 2003年 準決勝敗退
- 2004年 予選敗退
- 2005年 準々決勝敗退
- 2006年 準々決勝敗退
- 2007年
[編集] 天皇杯
- 1994年 1回戦敗退
- 1995年 2回戦敗退
- 1996年 1回戦敗退
- 1997年 準決勝敗退
- 1998年 準々決勝敗退
- 1999年 準々決勝敗退
- 2000年 準々決勝敗退
- 2001年 4回戦敗退
- 2002年 準々決勝敗退
- 2003年 優勝
- 2004年 準優勝
- 2005年 準々決勝敗退
- 2006年 準々決勝敗退
- 2007年
[編集] 関連項目
- ジュビロ磐田の選手一覧
- 静岡産業大学サッカー部(ジュビロと技術提携を結んでいる)
- Ole Ole Jubilo(K-MIXで、ジュビロ磐田を応援するラジオ番組)
- SBSビッグナイター(SBSラジオで、ホームゲームの一部をラジオ中継)
- ダービーマッチ
[編集] 外部リンク
ジュビロ磐田 - 2007 |
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1 川口能活 | 2 鈴木秀人 | 3 茶野隆行 | 4 大井健太郎 | 5 田中誠 | 6 マルキーニョス・パラナ | 7 太田吉彰 | 8 菊地直哉 | 9 中山雅史 | 10 成岡翔 | 11 西紀寛 | 13 森下俊 | 14 村井慎二 | 15 加賀健一 | 16 林丈統 | 17 犬塚友輔 | 18 前田遼一 | 19 岡田隆 | 20 中島良輔 | 21 佐藤洋平 | 22 カレン・ロバート | 24 松浦拓弥 | 25 ファブリシオ | 26 森野徹 | 27 上田康太 | 28 船谷圭祐 | 29 山﨑亮平 | 30 八田直樹 | 31 松井謙弥 | 32 山本康裕 | 33 押谷祐樹 | 34 須崎恭平 | 監督 アジウソン |クラブ | |
Jリーグ 2007 | |
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J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
|
J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガF.C. | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
|
過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |