パーシャンボーイ
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性別 | 牡 |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1982年4月18日 |
死没 | 1994年4月2日 |
父 | Persian Bold |
母 | Cryptomeria |
生産 | Dunchurch Lodge Stud Co. |
生国 | イギリス |
馬主 | 伊達秀和 |
調教師 | 高松邦男(美浦) |
競走成績 | 11戦5勝 |
獲得賞金 | 1億1,663万8,800円 |
パーシャンボーイは、イギリスで生まれ日本で調教された競走馬(外国産馬)である。第27回宝塚記念の勝ち馬。また、この宝塚記念がグレード制導入後、最初の外国産馬のGI制覇である。
[編集] 日本に渡ってきた経緯
父パーシャンボールドの現役時代の成績は並のものであったが、ボールドルーラーの直孫にあたり、父ボールドラッドも英国で3歳王者の実績がある。母系も母父・母母父に英ダービー馬というバランスの取れている血統である。 馬主である伊達氏は最初、父馬のパーシャンボールドを種牡馬として輸入しようとしたが交渉がうまくいかなかったため、種牡馬としての将来も見越し、パーシャンボールドの仔を日本で走らせるために、アイルランドのセリで本馬を落札した。
[編集] 戦績
欧州から日本に渡って来た本馬は、育成を経て伊達氏の盟友である高松厩舎に入厩。しかし体質的な弱さからデビューは明け4歳までずれ込んだ。デビュー戦は1985年2月24日、中山芝2,000メートルの新馬戦で5着に終わる。 その後、中2週ほどの間隔で中山を2戦使われるも2戦連続2着。初勝利は時間の問題かと思われたが3戦目の直後に重度の右後脚骨折を発症した。引退の検討もなされたが、オーナーの意思もあり引退はせず未勝利のまま休養に入った。
約10ヶ月の休養から復帰したが、既に5歳以上の未勝利戦は組まれていなかったため、中京の400万下条件戦で復帰。復帰後は、中京のダート戦を2戦使ったもののともに着外。 しかし、芝に路線変更した小倉の400万下条件戦を連勝。その勢いで900万下の特別戦も勝ち、陣営は宝塚記念を春の大目標とした。宝塚記念に間に合わせるために強行ローテで臨んだ谷川岳ステークスはまさかの2着。 そのため、安田記念に出走するプランもあったが、確実に勝つために準オープンに出走し快勝。推薦制度での宝塚出走にかけた。
シンボリルドルフ引退、ミホシンザン故障、シリウスシンボリ海外遠征と一流馬が不在ということもあり、パーシャンボーイは無事に推薦馬に選出された。 栗東に乗り込んでの最終追いきりはラスト3ハロン33.0というすばらしい動きを披露し、鞍上に自厩舎の名手柴田政人を起用。これらの事もあり、当年春の天皇賞を勝ったクシロキング、ファン投票1位のスダホークに次ぐ3番人気に支持された。 レースはクシロキングをマンマークして好位を追走していたが、クシロキングの反応が鈍いと見るや早めに進出を開始し、後続もそれに続いた。 最後の直線は、伸びないクシロキングや追い込んでくるスダホークやスズカコバンを尻目にメジロトーマス(当年春の天皇賞2着)とともに先頭に立ち一騎打ちになったが、最後は力でねじ伏せ、1と3/4馬身差をつけて快勝。 重賞初制覇が「外国産馬はGIを勝てない」というジンクスを打ち破るうれしいGI制覇となった。
その後は、秋に備え休養しジャパンカップや有馬記念を目標に調整されていたが、春の過酷なローテ(4ヶ月で遠征多数の8戦)と元々の脚部不安もあってか屈腱炎を発症し引退。種牡馬入りとなった。
[編集] 引退後
種牡馬入り後は、繁殖の質には恵まれなかったがパーシャンスポット(クイーンステークス、新潟記念、府中牝馬ステークスで2着)が活躍するなど、そこそこの成績を上げた。孝行娘の活躍で繁殖の量・質が上がり始めた矢先、種付け中に心臓麻痺を発症。死亡した。
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