フアン・アントニオ・サマランチ
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フアン・アントニオ・サマランチ(Juan Antonio Samaranch、正式にはDon Juan Antonio Samaranch i Torrelló, marqués de Samaranch、1920年7月17日 - )はスペイン・バルセロナ出身のスポーツ官僚であり、1980年から2001年にかけて国際オリンピック委員会(IOC)の会長を務めた。トレロ(Torello)というあだ名を持つ。
[編集] プロフィール
裕福な一族のもとに生まれたサマランチは、数多くのオリンピック大会でスペインチームの代表を務めた。 その後、1966年にフランコ独裁政権のもとでスポーツ長官に任ぜられ、さらにスペインオリンピック委員会の会長に就任、IOCメンバーにも名を連ねることになった。1974年から1978年にかけて彼はIOCの副会長を努め、また1977年から1980年までスペインの駐ソ連・駐モンゴル大使に任ぜられた。1991年には侯爵(Marqués)の地位を授かり、サマランチ侯に叙せられた。
1980年の夏季オリンピック後、IOC会長だったキラニン卿が辞任し、サマランチは後任として選出された。任期中、サマランチは放映権やスポンサーシップの管理を通じて、オリンピック活動の財政健全化を実現した。1984年の夏季オリンピックでも東側諸国の大会ボイコットがあったものの、彼の任期中におけるIOC加盟国とオリンピック参加国の数は増加し続けた。 またサマランチは最も優れた運動選手がオリンピックで競い合うことを望み、プロ選手の解禁が漸進的に行われる結果となった。
サマランチの他の業績としては、IOCの組織再編と、1992年の夏季オリンピックを彼の故郷バルセロナに誘致したことが含まれる。
[編集] 家族
彼は1955年12月1日に、マリア・テレザ・サリサチス・ローと結婚した。彼女との間には1男1女をもうけた。 彼の息子フアン・アントニオ・サマランチ・サリサチスは現在IOCのメンバーとなっている。
[編集] IOC会長としての功罪
サマランチはIOC会長としては議論の的となる人物であり、元選手や政治家などからの相次ぐ批判を受けた。 中でも強硬だったのは、アンドリュー・ジェニングス(イギリスのジャーナリスト)による一連の書籍およびテレビドキュメンタリー番組によるものであった。サマランチは独裁体制下の上級官僚であった上に(議論の余地はあるが)政治家でもあり、こうした背景に多くの人々が矛盾を感じたのである。 批判者によればサマランチは独裁的で、IOCの決定に関する密室政治の文化に対して組織内外からの批判的な意見が述べられても、まったく耳を貸さなかったという。この文脈においては、サマランチが(類似の性質を持つ)オプス・デイのメンバーであることは注目に値する。サマランチ時代に起きたIOCメンバーのあからさまな腐敗に関する数多くの出来事は、IOCメンバーが開催候補都市に対して賄賂をたかるという広く蔓延した「文化」を直接的に示すものであると批判者は主張している。サマランチは任期の最後の数年において、こうした行き過ぎのいくらかを抑制する手を打った。 しかし、実は彼はもっと早い時期からこうしたことに気付いていて、2002年の冬季ソルトレークシティオリンピックを巻き込んだスキャンダルを発端とするメディアの圧力によって動いたに過ぎないという議論もある。
サマランチの功績のひとつは、疑いもなくIOCの財政を救った点にある。1970年代にIOCは財政危機に陥っており、立候補都市がなくなるのではないかと思わせるほどに開催地の負担が大きかった。サマランチ時代にはディック・パウンドの助力を得て、IOCはスポンサーシップの管理を刷新した(各国のオリンピック委員会に個別のスポンサーを認めるのではなく、世界的なスポンサーを受け入れた)。また新たな放映権契約によって、数百万ドルの収入を得た。しかしながら、このようにして得られた収入でIOCがとった行動については、推測や批判の対象となっている。
2001年、サマランチは会長選挙に立候補しなかった。 彼はジャック・ロゲを後任とし、IOCの終身名誉会長の座についた。 彼はまた、バルセロナで開催された2004年のユニバーサル・フォーラム・オブ・カルチャーズのパーソナリティを務めたが、これはおそらく(彼が以前社長をしていた)ラ・カイシャ貯蓄銀行がこのイベントのスポンサーとなっていたからであろうと考えられている。 このフォーラムで紹介された彼の経歴からは、フランコ独裁政権時代の閣僚経験は注意深く削除されている。 皮肉なことに、このフォーラムの会場は悪名高きキャンプ・デ・ラ・ボタ牢獄(1939年2月20日から1952年12月24日までの間に1619名の共和主義者が銃殺された)のあった場所に建っている。 かつて投獄された人々によって立てられた小さな記念碑は、2004年のフォーラム開催に向けた建設工事の最中にブルドーザーによって跡形も無く消えた。
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