ブルーサンダー打線
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ブルーサンダー打線とは、1989年、1990年のオリックス・ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)の打線の愛称である。また、この愛称はオリックスがパシフィック・リーグを連覇した1995年、1996年にも使われた。
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[編集] 経緯
1988年末阪急ブレーブスはオリエントリースに身売りし、1989年からオリックス・ブレーブスとなることが決まった。同時期に、大阪を本拠地とした南海ホークスもダイエーに身売りし福岡移転することとなった。これに際し、当時南海の4番打者であった門田博光が関西への残留を希望、阪急に引き続き西宮市を本拠地とするオリックス・ブレーブスに移籍することとなった[1]。
門田は1988年、40歳ながら44本塁打、125打点を挙げ2冠を獲得、打率も.311であった。新球団のオリックスには、主軸のブーマー・ウェルズ、石嶺和彦、前年20本塁打と成長著しい藤井康雄、3割打者の常連で2桁本塁打が期待できる松永浩美などがおり、門田の新加入を機に、新球団の打線愛称としてこの名が定着したものである。
1991年、前年まで4番打者であった門田がホークスに移籍した。また、同年、阪急時代の1981年から10年連続で監督を務めた上田利治が退任し、巨人OBで神戸出身の土井正三が監督に迎えられた。土井監督時代の1991年以降は、失点を防ぐことに重点を置く体制となってチームの打撃成績も落ち、(新聞紙上等において)ブルーサンダー打線の呼称が使用されることは一時的に減少した。
[編集] 由来
メジャーリーグ・シンシナティ・レッズの打線が1970年代に「ビッグ・レッド・マシン」と呼ばれたことに倣ったものである。ブルーは、オリックスのコーポレートカラーでありユニフォーム等にも採用された青色を指す。サンダーは、破壊力ある重量打線のイメージから付けられたもの。
[編集] 1989年の打線構成
- [三]松永浩美<打率.309、本塁打:17、打点:60>
- [二]福良淳一<打率.259、本塁打:8、打点:47>
- [一]ブーマー・ウェルズ <打率.322、本塁打:40、打点:124>
- [指]門田博光<打率.305、本塁打:33、打点:93>
- [左]石嶺和彦<打率.277、本塁打:20、打点:77>
- [右]藤井康雄<打率.292、本塁打:30、打点:90>
- [中]本西厚博<打率.302、本塁打:5、打点:33>
- [捕]中嶋聡<打率.234、本塁打:5、打点:26>
- [遊]小川博文<打率.247、本塁打:5、打点:32>
本打線の特徴は、前年本塁打王である門田の加入により、3~6番に、右・左・右・左と、本塁打を期待できる打者を交互に並べることができた点にある。また、これに伴い、前年まで3番・クリーンナップを担うことの多かった松永浩美が1番打者に座り、その打率の高さを生かすことができた。7番センター以外は、ほぼ固定のオーダーであった。7番センターには守備力の高い本西厚博が多く出場したが、熊野輝光、南牟礼豊蔵、山森雅文が起用されることがあった。熊野は1980年代後半にレギュラーとして活躍した選手であり、山森はアメリカ野球殿堂に顕彰されるほど守備力に秀でた選手であった。
この打線の活躍は、1989年のペナントレースがまれに見る激しい争いとなる一因となった。チームは開幕8連勝でスタートするなど、打線の好調さもあって開幕から首位を続けた。8月に9勝16敗と大きく負け越し、最終的には近鉄・西武との三つ巴の激しい争いとなり、最終的にはオリックスは72勝55敗3分、勝率.567であり、71勝54敗5分、勝率.568の近鉄にゲーム差0.0で2位に終わった。
90年は、ブーマーが怪我で長期離脱したこともあり、一塁に村上信一が入ることが多かった。
なお、松永と石嶺はそれぞれ1993年と1994年に阪神タイガースへ移籍している。
[編集] 1995年の打線
この年は、仰木彬監督は「日替わりオーダー」と呼ばれる、固定メンバーによらない方針をとり、打線が毎試合変わるケースが多かった。よって上記は標準的なメンバーである。3塁や2塁、遊撃には馬場敏史、指名打者にはD・J、捕手には高田誠らも起用された。1996年は近鉄からトレードで入団した大島公一が福良淳一に変わり2番二塁手で出場することが多かった。また、シーズン終盤には1番で不振だったイチローを3番にしたこともあり、以降「1番田口」が定着してゆくこととなる。
[編集] 関連項目
- ビッグ・レッド・マシン
- ミックスモダン打線
[編集] 脚注
カテゴリ: 打線 | オリックス・バファローズ