ブーマー・ウェルズ
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ブーマー・ウェルズ(Gregory DeWayne Boomer Wells、 1954年4月25日- )は、米国アリゾナ州出身。昭和末期から平成期(1980年代後半-1990年代前半)のプロ野球選手(一塁手)。右投げ右打ち。
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[編集] 来歴・人物
アリバニ大ではフットボールの選手を目指していたものの、NFLの入団テストに不合格となり、マイナー契約としてプロ野球界に進んだ。1981年にブルージェイズ、1982年にツインズを経て、1983年に阪急ブレーブスに入団。登録名を『ブームを呼ぶ男』の意味のブーマーとした。
入団1年目から5年連続して3割を記録し、2年目の1984年には打率.355、37本塁打、130打点で外国人選手初となる三冠王とMVPを獲得、リーグ優勝に貢献した。1987年に再び打点王、1989年には首位打者と打点王の2冠を獲得。40本塁打以上を3回、100打点以上を5回記録した。1992年にダイエーに移籍し、38歳で打点王を獲得するものの、この年限りで退団。
現在は野球代理人(エージェント)であり、アメリカと日本の野球界の橋渡し役として活躍している。
[編集] エピソード
- 1988年7月13日には西宮球場で渡辺久信(西武)から飛距離162メートルの場外本塁打を放ち、落下地点が確認された本塁打としては日本最長記録となった。200cm、100kgを超える巨漢でありながら、長身をうまく使った非常に柔らかいスイングで三振が少なく、守備でもゴールデングラブ賞を2回獲得するなど、器用な選手であった。
- 入団初年度に「彼が場外本塁打を打ったら『ブーマーパン』というパンを観客にプレゼントする」という企画が行われたことがあったが、彼は場外本塁打を打つことができず(日本野球への順応の問題かその年の本塁打数は17本に止まっている)、企画はあえなく失敗に終わった。後に上記の場外本塁打を打った時、当時を知るスタッフは残念がったという。
- アンダースローの柳田豊(近鉄)を苦手としており、彼を打つために左打席に立ったこともある。
- 死球を受けて、相手投手のいるマウンドを目掛けていくシーンは、シーズンオフの「プロ野球珍プレー好プレー大賞」などで何度も採り上げられた。また、そのシーンはそのまま祐徳薬品工業の『パスタイム』のCMでも起用され、死球を受けたブーマー本人がマウンドへ向かった…と思ったら薬局に駆け込んで、薬剤師に湿布薬を求める、といった内容で話題になった(商品名を言った後、薬剤師に「ハンキューベリーマッチ」という駄洒落付きであった)。
- ユニフォームを忘れて、同僚の山沖之彦投手(190cmの長身)のユニフォームを借りて試合に出場したことがある。しかしサイズが合わずバッティングも窮屈になってしまった。
- 阪急に在籍していた頃は、当時は外国人選手といえどもタクシー送迎などの待遇はなく、自宅から阪急電車を利用して球場へ通っていたようである。電車の扉が本人にとっては低すぎ、扉を「くぐって」電車に乗り込んでいたという。
- オリックス在籍中の1989年、チームメートの門田博光が本塁打を打ち、出迎えた際、怪力のハイタッチを浴びせて門田は腕を脱臼、シーズン終盤であったために残りの半月を棒に振る、というアクシデントを引き起こし、意外な形で改めてブーマーの怪力ぶりがクローズアップされる。この年は近鉄・西武とオリックスが最後まで競り合った末、近鉄が優勝したが、このハプニングがなければ違った結果が出ていたかもしれない、と評する者も多い。
- 引退後は代理人としてナイジェル・ウィルソン(日本ハム→近鉄)などを日本球界に送り込んだ。ウィルソンが活躍していた頃に受けた雑誌のインタビュー(懐かしの外国人選手の今を紹介する企画)では、ウィルソンを日本ハムに送り込んだことについて「上田監督に恩返しがしたかったんだ。」と語っていた。
- 選手名鑑の「癖」の欄に「ベンチで奇声をあげる」と書かれていた。
- サインを書く際には、サインの下に「ブーマー」とカタカナで書き込んでいた。またファンのサインの求めを決して断らず、ダイエー移籍後、平和台球場の前でファンの求めに応じて試合後も長く残ってサインをする姿を目撃されている。
[編集] 年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983年 | 阪急 | 121 | 450 | 60 | 137 | 22 | 1 | 17 | 62 | 2 | 0 | 2 | 31 | 38 | .304(7) |
1984年 | 阪急 | 128 | 482 | 82 | 171 | 23 | 2 | 37 | 130 | 2 | 0 | 7 | 60 | 33 | .355(1) |
1985年 | 阪急 | 129 | 529 | 86 | 173 | 26 | 2 | 34 | 122 | 2 | 0 | 7 | 40 | 36 | .327(4) |
1986年 | 阪急 | 127 | 494 | 94 | 173 | 20 | 2 | 42 | 103 | 1 | 0 | 1 | 58 | 38 | .350(2) |
1987年 | 阪急 | 129 | 513 | 81 | 170 | 30 | 0 | 40 | 119 | 2 | 0 | 8 | 44 | 43 | .331(2) |
1988年 | 阪急 | 88 | 339 | 48 | 98 | 18 | 0 | 14 | 46 | 1 | 0 | 2 | 37 | 24 | .289 |
1989年 | オリックス | 130 | 512 | 101 | 165 | 19 | 0 | 40 | 124 | 2 | 0 | 8 | 58 | 37 | .322(1) |
1990年 | オリックス | 46 | 163 | 25 | 50 | 7 | 0 | 7 | 31 | 1 | 0 | 2 | 21 | 16 | .307 |
1991年 | オリックス | 121 | 463 | 45 | 139 | 26 | 0 | 20 | 67 | 1 | 0 | 7 | 26 | 30 | .300(5) |
1992年 | ダイエー | 129 | 506 | 56 | 137 | 19 | 1 | 26 | 97 | 4 | 0 | 6 | 39 | 38 | .271(21) |
通算成績 | --- | 1148 | 4451 | 678 | 1413 | 210 | 8 | 277 | 901 | 18 | 0 | 50 | 414 | 333 | .317 |
- ※生涯打率(4000打数以上)は2006年7月現在第5位で、右打者では最高の打率を残している。
[編集] タイトル・表彰・記録
- 首位打者 2回(1984年、1989年)
- 本塁打王 1回(1984年)
- 打点王 4回(1984年、1987年、1989年、1992年)
- 最多勝利打点 1回(1984年)
- MVP 1回(1984年)
- 三冠王 1回(1984年)
- ベストナイン 4回(一塁手: 1984年、1986年、1987年、1989年)
- ゴールデングラブ賞 2回(一塁手: 1986年、1987年)
- 5試合連続本塁打 2回(1987年9月6日~9月11日、1989年4月9日~16日)
- シーズン最多満塁本塁打 4本(1987年)
- シーズン最多勝利打点 21(1984年)
- オールスターゲーム出場 5回(1984年~1986年、1988年、1989年)
- オールスター最優秀選手 2回(1984年第2戦、1988年第1戦)