ベルトラン・デュ・ゲクラン
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ベルトラン・デュ・ゲクラン(Bertrand du Guesclin, 1320年 - 1380年7月13日)は中世フランスの軍人。百年戦争初期に大活躍してフランスの劣勢を挽回した。
[編集] 生涯
ベルトラン・デュ・ゲクランはブルターニュのディナンでラ・モット・ブローン城主の子として生まれた。 若い頃は馬上槍試合が大好きな乱暴者として知られていたが、長じて軍事的才能を発揮し、奇襲や夜襲など少ない兵力を有効に活用するゲリラ的戦術を得意とした。 はじめシャルル・ド・ブロワに仕え、1356年から翌1357年までジョン・オブ・モンフォール率いるイングランド軍の侵攻に対してレンヌを守りぬいた。1364年賢明王シャルル5世がフランス国王に即位すると彼に仕え、王位を認めさせるためにナバラ王カルロス2世と戦って5月16日ノルマンディーのコッシュレルで大勝利した。しかし同1364年オレーで敗北、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ゲクランは仇敵ジョン・オブ・モンフォールに捕えられたがシャルル5世の払った身代金によって解放された。
1366年ゲクランは、失職して社会不安の原因となったブルターニュの傭兵たちをまとめてスペインに向かい、エンリケ・ド・トラスタマラの援軍としてペドロ1世(残虐王)と結んだエドワード黒太子と戦った。ゲクランは各地で勝利を収めたものの、1367年ナヘラの戦いで黒太子に敗れて再びイギリスの捕虜となり、身代金と引き換えに解放されている。
しかし1369年ゲクランはモンチエルでペドロ1世率いるカスティーリャ軍を破り、エンリケ・ド・タラスタマラはカスティーリャ王エンリケ2世として即位する。続くイングランドとの戦いではポワトゥーやギュイエンヌをフランスに取り戻し、イギリス軍をブルターニュに追いやった。これらの功績によりゲクランは1370年10月2日シャルル5世によって大元帥に任じられている。1374年ランカスター公がボルドーに侵入したが、ゲクランの働きによって得るところなく退却した。1375年ブリュージュ条約が結ばれ百年戦争は2年の中断を迎える。この条約によってフランスはほぼ戦前の旧状に復し、カレー、シェルブール、ブレスト、ボルドー、バイヨンヌの諸都市を除いた地域を取り戻した。
1378年シャルル5世の命じたブルターニュ攻略には気が進まなかったが、ゲクランの指揮によってフランス軍は再び勝利を収めた。 1380年7月13日ゲクランは南フランスのラングドックを包囲中に病没し、シャルル5世は、王家の墓所パリのサン・ドニ教会にゲクランを埋葬するように命じた。2ヶ月後にはシャルル5世も死亡したが、今もゲクランの石棺はシャルル5世の足元に置かれている。
ゲクランの性格はルネサンスの傭兵隊長に近い合理的な側面を見せながら、中世の騎士道精神も残した過渡期独特の複雑なものだった。奇襲や野戦のような戦術を用いる臨機応変な戦術で勝利を収めながらも、名誉を重視してやたらと誓いを立て、エドワード黒太子に勝つまで座って食事をしないなどの制約を自らに課すようなところは中世の騎士そのままだった。 赤痢によって死亡するまでに、彼はフランスの大部分をイギリスから奪い返した。
[編集] 小説
ベルトラン・デュ・ゲクランを主人公とした小説に佐藤賢一による『双頭の鷲』があり、彼の性格や彼を取り巻く人々との関係が生き生きと描かれている。
『双頭の鷲』佐藤賢一 新潮社
- 上巻 (2001/06) ISBN 4101125317
- 下巻 (2001/06) ISBN 4101125325