ペドロ・デ・ラ・ロサ
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
車番 | 4 |
所属チーム | マクラーレン |
年 | 1999 - 2002,2005 - |
過去の所属チーム | アロウズ,ジャガー |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 30 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | 1999年オーストラリアGP |
初勝利 | |
2006年順位 | 11位 (19ポイント) |
(記録は2006年第18戦終了時) | |
ペドロ・マルティネス・デ・ラ・ロサ(Pedro Martínez de la Rosa, 1971年2月24日 - )はスペイン人のF1ドライバー。2003年からマクラーレンチームのテスト兼リザーブドライバーを務めていたが、2006年フランスGPからレースドライバーとして復帰した。
[編集] プロフィール
1995年に全日本F3選手権のシリーズチャンピオンを獲得し、翌1996年にはフォーミュラ・ニッポンにステップアップ。1997年にフォーミュラ・ニッポンのシリーズチャンピオンを全戦表彰台に上がる活躍で獲得するなど、F1昇格までの道のりにおいて日本との縁が深いドライバー。
1999年、アロウズからF1デビューを果たし、開幕戦オーストラリアGPではいきなり6位入賞を果たした。しかし、チームの資金難もあり、その後はパッとしなかった。 そして2000年もアロウズ、2001年、2002年にジャガーのレギュラードライバーとして在籍するが、シーズン終了後シートを喪失。
2003年からマクラーレンのサードドライバーとして契約。
2004年にマクラーレンはコンストラクターズランキング5位となったために、2005年のレースウィーク金曜日において3台目のマシンを走らせる権利を獲得、そのため主にデ・ラ・ロサが金曜日のフリー走行に参加した。これは、当初マクラーレンのシャシーが大柄なアレクサンダー・ヴルツのサイズに合わなかった為と言われていたが、その後もデ・ラ・ロサが優先されていることから、エースドライバーのキミ・ライコネンとドライビングスタイルが似ていることが大きな理由であると思われる。なお、第3戦バーレーンGPでは怪我で欠場したファン・パブロ・モントーヤに代わりレースに出場し、5位入賞を果たすとともに、初のファステストラップを記録した。
2006年モントーヤが来期のNASCAR参戦と共に、シーズン途中でのチーム離脱を発表。これによりフランスGPより彼が出走する事が決定した。
迎えたフランスGPでは7位入賞を果たし、第13戦ハンガリーGPでは、自身初の2位表彰台に上がった。