ボナパルティズム
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ボナパルチスム(Bonapartisme)とは、本来の意味では、ナポレオン1世によるフランス第一帝政の崩壊後、ナポレオン1世の一族を再びフランスの支配者に据えようとした政治運動を指す。ボナパルト一族支持者たちは、ボナパルチストと呼ばれた。
ナポレオン1世が失脚直後から百日天下、そしてセントヘレナ島流罪とナポレオンが生存していた頃のナポレオン支持者も含める。彼らは、ナポレオン戦争収束後、王政に復したフランスで王党派からの迫害を受けた(白色テロ)。流罪となってもナポレオン支持者の復位の策謀があったが、ナポレオンは復位を拒んだ。真のボナパルティズム運動は、ナポレオン・ボナパルトの死後から始動する。
運動の初期は、ナポレオン1世の嫡子でローマ王だったナポレオン2世の擁立に向けられたが、1832年に死去したため、ナポレオンの甥でルイ・ボナパルトの子ルイ=ナポレオン・ボナパルトを宗主として仰ぐ。ルイ・ナポレオンは、1840年に7月王政期のフランスに対してクーデターを起こしたが、この時は失敗した。
ルイ・ナポレオンのこの運動は、1852年にナポレオン3世による第二帝政の成立として結実した。第二帝政崩壊後の第三共和政下では、ボナパルチストはナポレオン3世の皇太子であったナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)に望みを賭けたが、同じような保守派である、ルイ・フィリップの一族を推すオルレアニストや、ブルボン家の子孫を推すレジティミストと競合することになった。1879年のナポレオン・ウジェーヌ・ルイの死後は、この意味でのボナパルチスムは有力な政治運動ではなくなっている。ただこの狭義においてのボナパルティズムは、20世紀まで続き、特にナポレオンの生地、コルシカ島の各市の市長には、ボナパルト派と呼ばれる人物が存在していた。
より広い意味では、革命運動を強権でもって弾圧しようとする権威主義的・反動的な運動一般のことを指す。ボナパルティズムという用語を最初にこの意味で用いたのは、第二帝政の成立を同時代人として目撃し、これを批判したカール・マルクスであった。以後、発展段階史観的な視点に立つ者は、ボナパルティズムを、勃興するプロレタリアートと旧勢力たるブルジョアジーの勢力均衡が生じ、いずれもが国家体制に対するヘゲモニーを握れない状況下で、双方に対して自立的、かつ強権をふるう国家権力が一時的に発生する現象と、普遍化して解釈するようになった。
今日ではボナパルチスムは歴史学の上ではあくまで近代フランス史上の特定状況下で発生した現象として分析されるようになっている。しかし、マルキシズムの系譜を引く政治思想に基づいて革新運動を行う団体や個人は、今日でもしばしば同時代的な国家権力による強権発動とみなした現象をプロレタリアートとブルジョアジーの均衡状況が発生したが故の一時的な現象と解釈し、プロレタリアートの権力掌握に向けて直ちに克服すべき性格の国家権力が出現したとして、権力批判のプロパガンダに多用する傾向がある。