ナポレオン2世
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ナポレオン2世(ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト、Napoléon François Charles Joseph Bonaparte, 1811年3月20日 - 1832年7月22日)は、ナポレオン・ボナパルトの息子。ローマ王、ライヒシュタット公。
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[編集] 孤独な幼年期
1811年3月20日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトとハプスブルク家のマリア・ルイーゼ(マリー・ルイーズ)皇后の間に生まれた。生まれてすぐにローマ王とされた。1814年4月6日にナポレオンがフォンテーヌブロー宮殿で退位すると、母マリア・ルイーゼと共に、5月21日にオーストリアに帰国した。フランソワは、ナポレオンの残党による誘拐を恐れたメッテルニヒによって、ほとんど監禁同然の身になった。
1816年3月7日に、母マリア・ルイーゼがパルマ統治を任され、パルマへと旅立っていった。その後、彼の生活は一変し、フランス語を話したり、フランス語の本を読む事を禁じられ、ドイツ語を勉強する事を強制された。1817年5月1日に、マリア・ルイーゼはナイペルク伯の娘アルベルティーヌを出産し、ウィーンでのフランソワとの面会の約束を破ってしまった。母親に約束を破られた彼は、この時大変に悲しんだという。マリア・ルイーゼが重い腰を上げ、フランソワに会いに行ったのは、それから2年も経った1818年の7月だった。それからパルマに戻ったマリア・ルイーゼは、1819年8月9日にはナイペルク伯の息子のギヨームを生み、また彼との面会の約束を破った。その後、ロシア皇帝アレクサンドル1世がフランソワの許を訪れた事があり、その時「綺麗で賢く、好感の持てるなかなか良い少年ではないか」と言ったという。
1821年5月1日には、幼い時に別れたまま、一度も再会する事がなかった父ナポレオンがセントヘレナ島で死去した。父の死を知った彼は、椅子に身を投げ出し泣いたという。1822年の8月15日にマリア・ルイーゼは再びナイペルク伯の娘を出産し、9月上旬には正式にナイペルク伯と結婚した。この年と1825年に、マリア・ルイーゼはナイペルク伯の子供を出産し、この間に、ウィーンにいるフランソワに会いに行ったのは、たったの1回だった。
[編集] 父への憧れ
母がナイペルク伯と結婚した頃から、フランソワはライヒシュタット公と呼ばれる事になった。彼は歴史に熱中するようになっていた。ライヒシュタット公はフランス語に対する愛着を持ち続けた。それまでドイツ語によるナポレオン中傷に囲まれながら育ってきた彼は、父の真の姿を知りたいと思い、フランス語を昼夜熱心に学んだ。彼は宮殿内の図書館に入り込んでは、フランス語の本を貪るように読んだ。ナポレオンの部下のラス・カスが発表した『セント・ヘレナ島の記録』も、モントロン伯爵の『回想録』も、彼を感動で包んだ。彼は、父ナポレオンが、常々オーストリア人達が言っているような「ヨーロッパの平和を乱した罪人」ではなく、偉大な英雄であった事を知った。ライヒシュタット公はこれ以降、父の事を深く尊敬し、強く憧れるようになった。ライヒシュタット公が結核にかかったのもこの頃だった。少しでも父に近づきたいと思った彼は、耐寒訓練などの猛烈な軍事訓練に励むようになり、この事が病気を悪化させてしまったと言われている。
そんな日々の中、ライヒシュタット公は、母マリア・ルイーゼが父ナポレオンの存命中、秘密のうちにナイペルク伯との子供のアルベルティーヌとギヨームを出産していた事を知ってしまった。しかし、彼はただ1人の親となった母親の愛を失いたくないと知らないふりをし、前にもましてマリア・ルイーゼに宛てて優しい手紙を書いた。しかし、この事実を知ったライヒシュタット公の衝撃と、母の軽率さに対する嫌悪は強く、後に「母は父にふさわしくなかった」と書き残している。そのうち、彼はプロケッシュというオーストリア人の青年に出会う。彼は『ワーテルロー戦記』という著書の中で、徹底的にナポレオンを擁護していた。ライヒシュタット公は感激し、それから2人は親友になった。
その後、1832年7月21日にプロケッシュは、ローマにいたライヒシュタット公の祖母マリア・レティツィアの許を訪れた。そして彼は、ライヒシュタット公はナポレオンの息子にふさわしく、立派に成長していると話して聞かせた。この話を聞いたレティツィアは喜び、「あの子に父の意志の全てを尊重するようにと伝えてください。いつか、あの子の時代が来るでしょう。あの子はフランスの玉座に上る事でしょう」と言った。
しかしその同じ日、ライヒシュタット公は病の床に臥していた。彼の教育係であるディートリヒ・シュタインの再三に渡る嘆願の手紙で、やっとウィーンに来たマリア・ルイーゼも、やつれ果てた息子の姿を見ると、さすがに良心の呵責に苛まれた。うとうととしていたライヒシュタット公は「馬の用意をしろ! 父の前方を行かなければならないのだ」と突然叫んだ。翌日の1832年7月22日に、ライヒシュタット公は21歳という若さで死去し、ハプスブルグ家の墓地であるカプツィーネ教会に葬られた。
後にナチス・ドイツ占領下の1940年12月15日、ナポレオン崇拝者の1人でもあるアドルフ・ヒトラーによってオテル・デ・ザンヴァリッドの地下墓所に葬られた。
[編集] 備考
ナポレオン1世の失脚時の1815年に、ナポレオンとフーシェから後継者として指名され、ナポレオンの弟リュシアン・ボナパルトによって議会上院に採択される。この措置によって一時的ではあるが、2世の即位は公的なものとなった。実質的に6月22日~7月7日まで名目上フランス皇帝であった。
[編集] 関連項目
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