ミケランジェロ・メリージ
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ミケランジェロ・メリージ(Michelangelo Merisi、1573年9月28日 - 1610年7月18日)は、カラヴァッジオ(Caravaggio)という通称の方が有名な、イタリア・ミラノ生まれの画家。
日本ではカラヴァッジオ、カラヴァッジョなど様々な表記をされているが、本項では以降「カラヴァッジオ」と表記する。
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[編集] 生涯
カラヴァッジオの自然主義的芸術観は、もちろん部分的ではあるが、彼の生誕地であり芸術形成を行った北イタリアのロンバルディア地方の重要な絵画環境からきている。彼の一家はミラノ近郊のカラヴァッジオという村の住人で、彼自身も幼少から青年期をそこで過ごしたためこの通称となった。父親は早くに亡くなったが、石造建築の親方であったらしく、暮らしにはあるていどのゆとりがあったようだ。少年期に彼は、後期マニエリスム様式の画家の工房に師事し、20歳頃までこの村の工房で暮らしていた。したがって彼の絵の修行はロンバルディアでなされていたのであって、だからこそ彼はロンバルディア地方特有の芸術表現といえるリアルな細密描写を会得していたのである。もっとも、彼はその限界をはるかに超えて劇的に発展させていくことになる。
その後、カラヴァッジオはローマに移り、画業を始める。彼の描いた革新的な宗教画は教会において物議をかもしたが、裕福な人々は彼の作品の劇的な構成力を評価し、独創性を認めた。艶のある画風が時には同性愛者に彼の作品を求めさせることもあった。
カラヴァッジオは『聖母の死』、『聖マタイの殉教』など数多くの宗教画を描いたことで知られている。その特徴は画面の明暗の差が激しい宗教画としては極めてドラマチックな作風にある。また人物モデルに当時のフィレンツェの市井の人々を起用し、目に見えるものを見たまま画布に細密に描くという徹底したリアリズム表現を行った。彼はデッサンや習作を描くということをほとんどしなかったとみられ、現存していない。 また制作にあたって彼は意図する構図どうりにモデルを配置し、現在の写真や映画撮影のようにレフ板のような物で強烈な光を当てて、描いていたと推測される。
彼は数多くの逸話を残している。 例えば『聖母の死』では、注文主の教会が「聖母マリアの昇天」というテーマで描くよう依頼したにもかかわらず、カラヴァッジオは単なる横たわる女の骸として生々しく描いている。一説によると、自ら身を投げた女の死体をモデルに克明に描いたと言われている。そのため、事実を知った教会は祭壇を飾る絵としてふさわしくないという理由で受け取りを拒否する。しかし、画面に描かれたマリアの周りの人々の繊細な表情やもう1つの主役の強烈な光と陰は、大切な人を失った人間の悲しみを劇的なまでに強調している。
画家としての評価が高まる一方、残念ながら非難されるべき犯罪を引き起こしている。 彼は激情型の性格の持ち主で、アトリエを離れれば腰に剣を提げ、酒場でしばしば騒動を引き起こした。 喧嘩は日常茶飯事で、逮捕されたことも1度や2度ではなかった。挙げ句の果てに1606年にはとうとう球技の試合中に些細なトラブルから知人を刺し殺してしまい、ローマを追放される身となった。
当時スペインの飛地であったナポリへ移るが名声は衰えず、増え続ける製作依頼に追われていた。しかしその数カ月後には、さしたる理由もなくマルタ島へ放浪。マルタ島で幾つかの油彩を制作するが、ここでも暴力沙汰を起こして投獄される。脱獄に成功した彼はシチリアへ逃れ、聖堂から複数の制作依頼を受けている。
ローマへ戻る許しを求め続けていたカラヴァッジオのもとへは、ローマ教皇の特赦状を携えた使者が向かっていたが、彼はこれを受け取る前に腸チフスに倒れた。そして2度とローマの地を踏むことなく、1610年、劇的な生涯の幕を閉じた。
1986年にはイギリスの映画監督デレク・ジャーマンが彼の生涯や創作スタイルを描いた映画、『カラヴァッジオ_(映画)』を制作。ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したこともあり、カラヴァッジオことミケランジェロ・メリージの絵画を多くの人が知るきっかけとなった。
[編集] カラヴァジェスティ
- 「当時、ローマにおける画家たちはこれを革新的なのこととして受け止め、とりわけ若画家たちは彼を慕い、彼を唯一の自然主義的な写実主義者として称賛し、彼の作品を奇跡とみなしていた。彼らはモデルの衣類を脱がせ、明かりを持ち上げながら、カラヴァッジョの作品を揃って模写するのに懸命であった。」-ジョヴァンニ・ピエトロ・ベローリ(1672年)
同世代や続く世代の画家たちに、彼がもたらした革新が与えた影響を無視することはできないだろう。彼の忠実な写実主義、モデルの選択、明暗表現、彼独自の静物画の豊かな通路をしめした“闇の様式”、彼の色彩に対する眼などは、カラヴァッジオ作品の特徴である。
彼の躍進的な様式を模倣した画家に、オラーツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi)や彼の娘であるアルテミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)などが挙げられている。なお、このアルテミジアも1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデン・グローブで外国映画賞を受賞した。
“ユトレヒト カラヴァジェスキ”と呼ばれた、ユトレヒト出身のカトリック教会芸術団体は、17世紀の最初の年にローマへ旅行をした際、カラヴァッジオの作品に深く影響を受けていた、とベローリは描写している。彼らが北へ帰った後の流行は長く続かなかったが、後に1620年代ヘンドリック・テル・ブリュッヘン(Hendrick ter Brugghen)やファン・バブーレン(Drick Van Bahuren)の間で強烈に影響を与えていた。
続く世代においてカラヴァッジオの強い影響が少なくなかったことは、イタリアに一時滞在した際に彼の作品を見たと思われるルーベンス、フェルメール、レンブラントそしてベラスケス(Valazquez)へ与えた影響においてたどることができる。
現代画家のノルウェー人のオッド・ネルドル(Odd Nerdrum)はカラヴァッジオの作品を模倣し、現代風にしようと試みている。おそらく西洋の基準の中でジョットやマサッチョを除いては、生きた世代を超えて影響力を与えた者は彼以外にはいないであろう。
[編集] 最後のリラ紙幣に
カラバッジョはイタリアの10万リラ紙幣に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとは!」と一部から批判の声があがった。しかし、画家として業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。
[編集] 代表作
- 果物籠(1596年-1597年)(ミラノ、アンブロジアーナ絵画館)
- メドゥーサ(1597年頃)(ウフィツィ美術館)
- 聖マタイの召命 1592年-1602年頃 (ローマ、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂)
- 聖母の死 1605年-1606年 (ルーブル美術館)
- 愛の勝利1601年-1603年頃(ベルリン国立美術館)
[編集] 日本語における主要文献
- カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン(宮下規久朗・名古屋大学出版会・2004年)