モガディシュの戦闘
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Operation GOTHIC SERPENT | |
紛争 日付 1993年10月 3–4日(15時間) 場所 前段階 ‘希望の回復‘作戦 目的 モハメッド・ファッラ・アイディードの副官たちを捕らえること 対象人物 アイディードの外務大臣 オマール・サラッド 結果 ハブル・ジェディド派の指導者たちの捕縛 |
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交戦部隊 | |
急襲側 | 応戦側 |
アメリカ軍特殊作戦部隊 | モガディシュ現地の民兵・住民 |
司令部 | |
ウィリアム・ガリソン将軍 統合タスクフォース指令センター |
不明、または地元民兵 |
人数 | |
160人 | 2000人以上 (都市部のみ) |
死者 | |
18人 | 350から700人(推定) |
戦闘に関係したアメリカ軍部隊 | |
第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊C戦闘中隊(デルタ・フォース) |
モガディシュの戦闘(モガディシュのせんとう)は1993年10月3日にソマリアの首都モガディシュで発生したアメリカ合衆国軍とソマリア民兵との間で発生した戦闘。アメリカがソマリア内戦介入から撤収するきっかけとなった事件である。戦闘の激しかった地域の名を取って「ブラック・シーの戦い」とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 概要
1993年10月3日、統合特殊作戦コマンド(JSOC)の実行した作戦であり、ソマリアで行われたもので、第一目標はソマリア民兵の将軍モハメッド・ファッラ・アイディードの二人の副官を捕らえることだった。のちにこの出来事は世界中のメディアによって『モガディシュの戦闘』と名づけられた。
冷戦の終結と共に始まったソマリア内戦は泥沼化し、戦争による難民の飢餓が国際的な課題となった。国際連合(UN)は難民への食糧援助を行うため、平和維持活動(PKO)による軍事的介入を行った。アイディード派の敵対者たちへの軍事的包囲をやめさせ、飢餓状態を救おうとした。
作戦は国連主導のものではなく、ビル・クリントン大統領率いる米国の単独で行ったものであった。米軍は作戦を30分程度で終わらせる自信があったが、実際には15時間を費やし、2機のヘリコプターを失い、銃撃戦によって18名の米兵を殺害され、ソマリア民兵・市民350名以上(米国は1000名以上としている)を殺害した。撃墜されたヘリ「スーパー61」の墜落時の交信『Blackhawk down(ブラックホーク墜落)』という墜落時の交信で有名である。ただし、実際には『We got a Blackhawk going down, We got a Blackhawk going down(ブラックホークの墜落を確認、ブラックホークの墜落を確認)』であった。
この出来事は1999年、マーク・ボーデンにより‘Black Hawk Down: A Story of Modern War’(邦題『ブラックホーク・ダウン アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録』早川書房刊)という本として出版され、2001年にはリドリー・スコット監督により、『ブラックホーク・ダウン』として映画化された。
[編集] 作戦状況
主にレンジャー部隊員とデルタフォース(第1特別作戦部隊分遣隊 - デルタ)から成るアメリカ特別作戦部隊は、アイディードの外務大臣オマール・サラッドと最高政治顧問モハメッド・ハッサン・エワレを捕らえようとしていた。「アイリーン」という作戦コードにより、作戦が開始された。
ハンヴィーからなる脱出用の地上部隊はすぐに捕らえられた対象人物のところに到着することになっていた。作戦開始後の数分間、4組のチョーク(積載班、ヘリコプターへの搭乗を前提として編成された戦闘班の意)から成るレンジャーが作戦対象のビルの四隅に展開し、安全地帯を確保していた。アメリカ軍にとって不幸なことに、ソマリア人の住民や民兵が、地上部隊がレンジャーや捕らえられた者たちのところにいけないように、岩や火のついたタイヤでモガディシュの通りにバリケードを作っていた。
モガディシュ街路の上空70フィート(約21メートル)でホバリングするヘリコプターから米軍のレンジャー及びデルタフォースが降下、民兵のリーダーたちを捕らえるという任務を順調に達成したが、長時間にわたる遅延の間に、数分後にはソマリア民兵によってMH-60 ブラックホーク1機が撃墜された。救出に向かったタスクフォースは一晩激戦地に釘付けにされた。
急襲部隊と地上部隊の両方でお互いを視認できず20分間待っていたが、やっと接触できたとき、2機目のブラックホークも撃墜された。デルタ・フォースの2人の狙撃員、ランディ・シュガート一等軍曹とゲーリー・ゴードン曹長が負傷したパイロットに近づきつつある暴徒たちから彼を守るために地上に降下したが、後に両兵士とも暴徒たちによって殺害された。暴徒たちの大きさや襲撃の危険を知りつつ、また統合タスクフォース指令センターからヘリにとどまった方がよいと助言されながらも、彼らは躊躇することなく地上に降下した。シュガートとゴードンは戦闘での彼らの英雄的な行動によって名誉勲章を授与された。
地上部隊はやがて最初の衝突地点に到着した。約90人のレンジャーたちは激しい銃撃によって包囲された。航空支援が十分に受けられないにもかかわらず、次の日の早朝マレーシアとパキスタンの国連部隊が救援に来るまでレンジャーたちは夜のあいだ巧みに閉じこもった。他の国連部隊による救援の計画や調整は作戦の困難さを考慮しながら行われたため時間がかかり、アメリカ軍兵士の迅速な回復を難しくした。
兵士たちの話によると、戦闘が続くにつれてアイディード派の兵士たちは兵士を遮蔽するために市民を彼らの前に押し出していた。しかしながら、アメリカ軍兵士が民兵を隠すような市民を何度もためらわずに射殺したため、市民による遮蔽は減った。また、少数の米兵(車両)を多数で挟み銃撃し、その流れ弾による同士討ちも多数目撃されている。
翌10月4日午前6時30分、米軍は国連のパキスタン・スタジアムに引き上げてきた。米兵18人とマレーシア兵の国連軍兵1人が死亡し、73人が負傷していた。
この戦闘はソマリアの国連活動の中でアメリカ軍が直面したもっとも激しい市街戦のうちの1つであった。また、この戦いの後、死亡した米兵(上記の降下した2名とブラックホークの乗員)の遺体が裸にされ、住民に引きずり回されるという悲惨な映像が公開され、アメリカのニュース番組で放映された。(後に身体を切断された状態で発見される。)これに衝撃を受けたアメリカ国民の間で撤退論が高まった。アメリカ世論を背景にビル・クリントンは1994年、ソマリアからの撤兵を決定したが、この戦闘が平和維持活動から撤退したことの理由の1つとして挙げられている。また、クリントンはこの作戦の痛手によって、その後は地上軍の派遣を渋り、ミサイルや戦闘機によるハイテク戦争への方向を推し進めていく。
この作戦の所期の目的は達成されたため、作戦上は成功であると考えることもできる。しかし、当初30分程度で終了する予定の任務が夜をまたいで15時間にも及び、多くの犠牲を出した点を無視することはできない。
[編集] 作戦計画
- ナイト・ストーカーズが航空支援を担当:
- 侵入:
- タスクフォースレンジャーはブラックホークから迅速に目標ビルに降下し、建物の四隅の安全を確保する。
- デルタフォースはリトルバードから建物内に突入し、
- 生きたまま対象人物を捕らえる。
- 離脱:
- ハンヴィーの地上部隊は全員を収容する。
- ナイト・ストーカーズが空から護衛する。
[編集] 関連項目
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