ロンドン海軍軍縮会議
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ロンドン海軍軍縮会議(-かいぐんぐんしゅくかいぎ)は、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドの提唱で海軍の補助艦保有量の制限を主な目的としてイギリスのロンドンで開かれた国際会議(以下本会議)。
当初、アメリカ(以下米)・イギリス(英)・日本(日)・フランス・イタリアで会議がもたれたがフランスとイタリアは脱会。最終的に三国のみで締結される。
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[編集] 背景
1922年に締結したワシントン海軍軍縮条約(以下前条約)では、巡洋艦以下の補助艦艇は建造数に関しては無制限であった。そのため、各国とも前条約内で可能な限り高性能な艦、いわゆる「条約型巡洋艦」を建造することになる。特に日本の建造した妙高型重巡洋艦は、他国のそれを上回る性能を持ったため、これを制限するために開催された。
[編集] 本会議開催前
一般に、補助艦を制限した本会議は有名だが、その3年前(1927年)、ジュネーブにおいても会議が開かれていた。ただし、前条約で保有排水量が合意されなかったのは、米の比率主義と英の個艦規制主義と言う意見の対立のためであり、ジュネーブ会議においても意見の対立は解けず会議は失敗に終わる。
日本側は本会議の主催国である英国の譲歩を引き出す為、事前に鉄道省に相談せず外務官僚主導で英国製電気機関車を大量に購入したが水泡に帰す。 元々、英国内の幹線電化もそれほど進んでおらず電気機関車製造の経験が浅かった為、輸入した機関車はトラブル続きだった。やがてそれが日本側技術陣を鍛え、電気機関車国産化に繋がる。
[編集] 条約の内容
日本側は若槻礼次郎(首席全権)ら政府代表を派遣、英米も首相ラムゼイ・マクドナルド、国務長官ヘンリー・スティムソンなどが政府全権として交渉に当たった。先の会議では軍人を主においたため、政治的判断で決着を望むことになったためである。交渉は各国の意見対立などにより難航したが、前条約を基本としつつ最終的に以下のように決定した。
[編集] 戦艦
艦建造中止措置の5年延長、及び既存艦の削減。これにより、「比叡」(日)、「ユタ」「フロリダ」「ワイオミング」(米)、「ベンボウ」「マールボロー」「アイアン・デューク」「エンペラー・オブ・インディア」「タイガー」(英)を廃艦とした。 なお、「比叡」「ワイオミング」「アイアン・デューク」は武装、装甲、機関の一部を削減する代わりに、練習戦艦としての保有は認められている。
[編集] 航空母艦
従来は条約外であった1万トン以下の空母も前条約の規定の範囲とした。
[編集] 巡洋艦
上限排水量は前条約のままだが、下限排水量1850トンを上回ることとなり合計排水量も規定。その種類もはっきりと分けることになる。
[編集] 重巡洋艦
主砲は6.1インチより大きく8インチ以下。
合計排水量は、18万トン(米)・14万6800トン(英)・10万8000トン(日)比率、10:8.1:6.02
[編集] 軽巡洋艦
主砲は5インチより大きく6.1インチ以下。
合計排水量は、14万3500トン(米)・19万2200トン(英)・10万450トン(日)比率、10:13.4:7
[編集] 駆逐艦
主砲は5インチ以下。排水量は600トンを超え1850トン以下。1500トンを超える艦は合計排水量の16パーセント。
合計排水量は、15万トン(米英)・10万5500トン(日)比率、10:10:7
駆逐艦にのみこのような複雑な規定となっているのは、日本が保有する吹雪型(特型)駆逐艦のような大型駆逐艦を制限するためである。
[編集] 潜水艦
上限排水量は2000トン、備砲は5インチ以下。3艦に限り2800トンで6.1インチ以下。
合計排水量は、各国とも5万2700トン
3艦のみの特別措置は、米潜水艦「ノーチラス」「ノーワール」「アルゴノート」の保有を維持するためである。
[編集] その他
補助艦全体の保有率を対米比、6.975とすること。
排水量1万トン以下、速力20ノット以下の特務艦。排水量2000トン以下、速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦。排水量600トン以下の艦は無制限となった。
[編集] 影響
日本の内閣としては、提案した7割に近い妥協案を米から引き出せたことで、この案を受諾する方針であり、海軍省内部でも賛成の方針であったが、軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたことと、潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に条約拒否の方針を唱えた。ロンドン海軍軍縮条約締結後は、海軍内部に条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」という対立構造が生まれた。また、野党も明治憲法内の「天皇は陸海軍を統帥す(条文は平仮名訳)」(統帥大権)を盾に、政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だとするいわゆる統帥権干犯問題が発生した。また、新造艦艇を条約の制限内に納めるための無理な設計の結果、日米では重心があがったトップヘビー構造の艦が建造され、日本国内で友鶴事件・第四艦隊事件を引き起こす原因となる。
1935年(昭和10年)12月第2回の会議が開催されたが、日本は翌1936年(昭和11年)1月15日に脱退、軍縮時代に終止符が打たれた。
[編集] 関連項目
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