丁原
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丁原(ていげん、ピンインDīng Yuán ? - 189年)は中国後漢末期の軍人・政治家。字は建陽。出身は并州とする説が有力。
貧家で生まれ育った。武芸に優れ、馬術や弓術にも長けていたが、学問は無かった。南県の役人を経て、并州刺史(ヘイの字は井に似ているが別字。山西省あたりの長官)、騎都尉を務め、五原郡出身の呂布を取り立てる。189年(中平6)の霊帝の死後に、大将軍何進から洛陽へ招かれて宦官排斥に参加、執金吾となる。
何進が宦官に殺害されると、宮中では董卓が実権を握り、献帝を擁立しようとした。丁原はこれに反対したために董卓に通じた呂布に殺される。丁原配下の兵は呂布に従って董卓軍に吸収された。
三国志演義に題材をとった後世の書物では、なぜか『荊州刺史』として丁原を紹介するものが当然の様に出回っているが、 并州出身者とされている彼が当時の政局下で荊州に着任するとは考えにくく、明らかに誤記であると思われる。演義などでは董卓の専横に反発した気骨の士と評される事が多いが、何進暗殺直後の混乱に乗じ孟津で略奪を行っていたとの記録もあり、実際は北方軍閥同士の主導権争いの中で淘汰されたと見るのが妥当であろう。
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