三好長逸
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三好長逸(みよしながやす、永正12年(1515年) - 天正元年(1573年?))は三好氏の家臣。日向守。通称は孫四郎、別名として長縁ともいう。三好三人衆の一人で、その筆頭格であった。
三好一族の一人で、三好之長の孫で、三好長光の子にあたるという。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。
永正12年(1520年)、祖父と父が戦死したため家督を相続する。その後は三好長慶に仕えて、有馬重頼の要請に応える形での播磨攻めや、丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献した。長逸は三好一族の中でも、長慶に厚く信頼されて同名衆に列せられ、三好義賢や松永久秀よりも先に従四位に叙せられたといわれている。
長慶の死後は幼少の当主・三好義継を他の三人衆や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)には13代将軍・足利義輝暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから三好義継や松永久秀とは次第に対立を深め、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。
この過程で永禄10年(1567年)、三人衆の軍勢が陣取った奈良東大寺を松永軍が攻撃、焼亡する事件が起きている。また、その十日後には長逸の嫡男久助が山城国普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。だが義継・松永方にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に長逸ら三人衆方の優勢で進んでいたようである。
永禄11年(1568年)、織田信長が六万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆がかつての宿敵である六角義賢や紀伊の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継、松永久秀はいち早く信長に恭順する。
三好長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、織田信長の上洛を受けて三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出した。永禄12年(1569年)の本圀寺襲撃において、三好長逸は兵三千を率いて摂津池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北し、これにより三好三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。
しかし翌元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。同年6月、摂津池田城で謀反を起こして城主池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津国に軍を進めた。「元亀争乱」と呼ばれる一連の動乱において、野田城及び福島城を根拠地とする長逸ら三好軍の抵抗は、紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江国での浅井・朝倉連合軍の攻勢を受けて一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、同年11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。
この和議は翌年早くも破られ、長逸らは摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。
元亀4年(1573年)、足利義昭自身が決起し、これに三好義継、松永久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。
摂津中島城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが三好長逸の確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はない。
同時に史料から姿を消し、四十年後に唐突に登場した三好政康の例もあり、隠居・幽閉説など各種の説が存在する。