三宅康信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 永禄6年(1563年) | |||
死没 | 寛永9年9月27日(1632年11月9日) | |||
戒名 | 源心宗広法栄院 | |||
墓所 | 愛知県豊田市梅坪町の霊巌寺 愛知県田原市の霊巌寺 |
|||
官位 | 従五位下、越後守 | |||
藩 | 三河挙母藩主→伊勢亀山藩主 | |||
氏族 | 三宅氏 | |||
父母 | 父:三宅康貞、母:小笠原氏 | |||
妻 | 正室:戸田一西の娘 | |||
子 | 三宅康盛 |
三宅 康信(みやけ やすのぶ)は、安土桃山時代の武将。江戸時代の譜代大名で、三河挙母藩の第2代藩主。のちに伊勢亀山藩の初代藩主。
永禄6年(1563年)、三河挙母藩の初代藩主・三宅康貞の長男として遠江で生まれる。父と共に徳川家康に仕えて小田原征伐など家康の主要な戦争の多くに参加して武功を挙げた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは横須賀城番を務め、戦後は伊勢亀山城の城番を務めた。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では駿府城の守備、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では淀城の守備を務めた。元和元年(1615年)に父が死去したため、家督を継いで挙母藩の第2代藩主となる。元和3年(1617年)12月、従五位下、越後守に叙位・任官した。
元和6年(1620年)に第2代将軍・徳川秀忠の娘・和子が入内するときには、その警護役を務めた功績を賞されて2000石加増の1万2000石で伊勢亀山藩に移封された。寛永9年(1632年)9月27日に伊勢亀山で死去。享年70。後を長男の三宅康盛が継いだ。
|
|
|
|
|
|