三宅氏
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三宅氏は日本の氏のひとつ。
三宅氏には多くの流派がある。
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[編集] 三河田原城主三宅氏
徳川家譜代大名で挙母藩主となった三宅康貞の家系で、祖は鎌倉時代末期に現れた古代の三宅連の末裔の児島高徳であるとする。三河国内で三宅氏の活動がわかるのは15世紀末になってである。三宅筑前守家次なる人物が猿投神社の棟札に名を残すが、系譜上は確認できないが、三宅筑後守貞次のことではないかとされる。明応2年(1493年)の井田野の戦いに松平親忠と戦った武将に三宅伊賀守がいるが、これもこの系統の人物であろうが系譜は不明である。16世紀末になると足助などにまで勢力を強めるなど活動するが、三宅政盛が松平清康に攻められ降伏した記録があり、同じころに、三宅周防守清貞が清康に居城伊保城を攻略され逃亡した記録があり、三宅右衛門大夫高貞がその後に現れて清康に攻められていることから、分流がいくつか存在したか、戦国時代の荒波の中で歴代の当主が死去したものかと思われる。松平家に松平元康(徳川家康)が現れると、三宅正貞は、永禄9年(1558年)に松平氏の家臣となった。その子が三宅康貞である。以降は、挙母藩を参照。
この三河田原城の三宅氏の江戸藩邸の坂が、東京の最高裁判所の別名にも使われる三宅坂である。
[編集] 摂津国人三宅氏
藤原北家宇都宮氏流とも、藤原南家藤原武智麻呂の末流とも、前述の三宅氏同様に古代の三宅連の末裔ともいうが何れも伝説の域をでない。15世紀の初頭に摂津国国人三宅氏は史上に現れる。それは応仁の乱の際で、東軍の細川勝元の家臣で摂津国守護代であった薬師寺与一に率いられた摂津国人衆の一員としてであった。西軍は戦局打開の策として西国の大大名の大内政弘に大軍を率いさせて上洛させた。その大内軍を摂津で迎撃した細川軍の主力は摂津の国人領主たちであった。この戦で三宅氏の一族であろうと思われる三宅三郎という武将が戦死し、他の摂津国人の池田氏らとともに三宅氏も大内氏に降伏した。大内氏が都を離れると三宅氏は旧主の細川氏の下に帰参した。その後、細川氏は細川政元の跡目をめぐって争いが生じ、その際、細川氏の本領ともいえる摂津国も戦渦に巻き込まれた。跡目争いでは細川高国側に属して摂津国人の伊丹氏・瓦林氏らと池田氏のよる池田城を攻め落とした。細川高国が和泉国の深井の戦いで討ち死にした際には三宅和泉守(村綱か?)という三宅氏の当主が戦死している。後を継いだ思われる三宅国村はその後、高国の子、細川晴国を奉じて挙兵するが敗れ、晴国を殺害して細川晴元側に寝返り、高国の残党の伊丹国扶と戦っている。天文17年(1548年)、晴元がその執事三好長慶と対立を深めたとき、細川晴元を見限り、三宅国村は長慶側に寝返った。しかし翌年3月、三宅城は晴元側の勇将香西元成に攻められてあっけなく落城。それ以降香西元成が三宅城に拠った。しかし、6月になると三好長慶が退勢を挽回し、三宅城を攻撃。その際に三宅国村は奮戦して三宅城主として返り咲いた。天文21年(1552年)三好長慶は将軍足利義輝を京都に迎え、細川氏綱を管領とした。しかし、翌年、義輝は晴元を召し返そうとしたため、長慶と対立した。三宅国村は義輝攻撃の軍に加わり、三宅城は一族の三宅村良が守ったが、細川晴元側の香西元成に攻められて三宅城は落城し三宅村良は討死している。しかし、三宅国村はすぐに三好長慶の支援で三宅城を奪回している。だが、新たな恩賞がなかったことに国村は不満があったのか河内国守護の畠山高政が三好長慶に敵対して挙兵すると教興寺の戦いで畠山高政に味方したが、三好軍に瞬く間に三宅城を攻略され没落してしまった。
[編集] 能登畠山氏重臣三宅氏
能登畠山氏の重臣で第一次七人衆の一人であった三宅総広。その後の第二次七人衆には三宅総広にくわえて三宅総賢の名も現れる。三宅綱賢、三宅綱久、三宅続長などが弘治の内乱の際に温井総貞方として見える。