三島海雲
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三島 海雲(みしま かいうん、1878年7月2日 - 1974年12月28日)は、日本の実業家。カルピス株式会社創業者。
[編集] 略歴
- 1878年、大阪府下萱野村(現箕面市)の浄土真宗本願寺派教学寺の住職の子息として生まれる。13歳で得度。
- 1902年、仏教大学(現龍谷大学)卒業後、英語教師として、山口の開導教校に赴任するも、その職を辞し25歳の時に中国大陸、北京に渡った。雑貨貿易商「日華洋行」を設立。馬車を引き、大陸各地で日本の雑貨等を販売。
- 1908年、日本軍部から軍馬調達の指名を受け、内蒙古(現内モンゴル自治区)に入り、ケシクテン(克什克騰)でジンギスカンの末裔、鮑(ホウ)一族の元に滞在。酸乳に出会う。現地で体調を崩し、瀕死の状態にあったが、すすめられるままに酸乳を飲み続けたところ回復を果たしたという。海雲はのちに、「異郷の地で不老長寿の霊薬に出遭った思い」だったと記している。
- 1915年、当初の目的であった緬羊事業に失敗、辛亥革命を機に日本に帰国。〝心とからだの健康〟を願い、酸乳、乳酸菌を日本に広めることを志し、製品開発に取り組む。
- 1917年、カルピス社の前身となるラクトー株式会社を恵比寿に設立。発酵クリーム「醍醐味」、脱脂乳に乳酸菌を加えた「醍醐素」、生きた乳酸菌が入った「ラクトーキャラメル」などを開発、販売するがことごとく失敗する。海雲は人望が厚かったようで、この間にも多くの財界人などから援助を得た。
- 1919年、(大正8年)試行錯誤の末、世界で初めての乳酸菌飲料の大量生産に成功。7月7日にカルピスとして発売する。
- 1923年、ラクトー株式会社をカルピス製造株式会社に商号変更。
- 1949年、カルピス社、東京証券取引所に株式上場。
- 1956年、ピルマン製造株式会社(現、パンピー食品株式会社)を海雲個人とカルピス、明治乳業の出資により設立。その他に海雲自身が関わったものとしては、蜂蜜・ローヤルゼリーを製造販売する三島食品工業株式会社がある。
- 1967年、三島海雲記念財団を設立。
- 1974年、96歳で死去。
[編集] 特色
- 海雲はマーケティング活動にも秀でていた。「カルピス」という特色ある商品名の考案、「初恋の味」というキャッチフレーズの採用のほか、有名な黒人マークは今でいう国際コンペで募集されたものである。また、関東大震災時に善意から無料でカルピスを配給したこともカルピスの知名度向上に貢献した。1920年に動物愛護会とのタイアップによる伝書鳩レース、1926年には日比谷公園での囲碁大会など、今でいうところのの企業広告、PR活動を展開した。
- 「カルピス」の商品名はサンスクリット語の仏教用語が語源である。このように海雲の生涯の根底には仏教精神、仏教哲学があり、学生の頃より、「国利民福」(国の利益と人々の利益)を旨としていた。
[編集] 思想
- 「『お釈迦様は、一切の行動の効果を有するものは唯私欲を離れし、根本より生ずる』といわれた。私が今日あるのは先達、友人、知己、国民大衆の方々のカルピスに対する惜しみない声援によるものである。したがって得られた財物は1人三島海雲のものではない。あげて社会にお返しすべきだ。」「本財団の基本金はきわめて僅少である。しかし、創設者三島海雲の現有全財産を注入したものである。その狙うところは、私欲を忘れて公益に資する大乗精神の普及に在る。広野に播かれた一粒の麦になりたいのである。」(三島海雲記念財団設立趣意書より)
- 「人の短を道(い)うなかれ、己の長を説くなかれ。人に施しては慎んで、念(おも)うなかれ。施を受けては慎んで、忘るるなかれ(後略)」、「私が若人に望むことは、“私心を離れよ。そして大志を持て”ということである。」(講演会にて)
- 「人間は正直であらねばならない。売る品物も正直でなくてはならない。ハチミツを通じて健康を売るのだから、いいものを正直に正しく売りなさい」(三島食品工業での戒め)
- 著書に「初恋50年」(ダイヤモンド社)がある。