上方舞
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上方舞(かみがたまい)とは、江戸時代中期(1800年)から末期にかけて上方で発生して広まった、伴奏に上方歌を用いる座敷舞。能を基本にした静的な舞に、歌舞伎の要素を加味しており、しっとりとした内面的な舞い方をする。歌舞伎舞踊より抽象的で単純化された動きである。
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[編集] 上方舞の流儀
[編集] 上方舞の作品系統
- 本行物(ほんぎょうもの)
- 艶物(つやもの)
- 女舞の色っぽい情緒のある作品。「雪」など。
- 芝居物(しばいもの)
- 歌舞伎舞踊を上方舞に取り入れたもの。「江戸土産」「鐘が岬」など。
- 作物(さくもの)
- 軽妙でしゃれた味のおどけ物。「忘れ唱歌」「三国一」など。
[編集] 上方舞の流派
- 篠塚流(しのづかりゅう)
- 最古の流派。文化文政期、上方歌舞伎所作事の振付師篠塚文三郎が創始。篠塚文三郎は、当時の名優三世中村歌右衛門から篠塚梅扇の名を許された。幕末から明治初期にかけて、はんなりとおおらかな所作が京の花街、町衆の人気を呼んだ。三世家元篠塚梅扇が明治19年に没した後は、多くの門弟によって流風は残されたものの後継者はいないままになっていた。昭和21年篠塚流最後の町師匠と言われた水野つる女が死去し一時篠塚流は途絶えたが、昭和38年五世家元篠塚梅扇により京舞篠塚流は再興された。以降、祇園甲部歌舞練場・京都府立芸術会館他にて、度々「京舞篠塚流の会」を開催。また文化財に指定されている京都島原角屋での「島原三番艘」、重要文化財芦花浅水荘や京都市指定有形文化財野口邸および杉本邸での「座敷で見る京舞」などを開催。昭和38年より小町踊りを復活し、毎年7月10日祇園祭神輿洗い神事お迎え提灯に参加している。
- 山村流(やまむらりゅう)
- 江戸時代(文化三年)、三世中村歌右衛門と共に活躍し、当時の上方文化を席巻した歌舞伎振付師山村友五郎により創流。舞の品の良さから商家の子女の習い事として隆盛を極め、「行儀見習いは山村へ」とも称される程。
- 楳茂都流(うめもとりゅう)
- 江戸末期、楳茂都扇性(せんしょう)が創始。
- 井上流(いのうえりゅう)
- 吉村流(よしむらりゅう)
- 江戸末期に京都の御所に出仕した狂言師が始めた御殿舞が源流。家元は世襲せず、代々実力のある女性の内弟子が跡を継いだ。明治初期、吉村ふじが大阪南地の花街・宗右衛門町に移り、地唄舞などの座敷舞を本分とする吉村流を起こした。二代目吉村ゆう、三代目吉村雄光のあと、四代目を初の男性吉村雄輝が継ぐ。雄輝はストーリー性を重視した新作を振り付け、わかりやすい上方舞をめざして、一地方の花柳界の芸事だった吉村流の舞を全国的な伝統舞踊の域にまで昇華させた。その業績が認められ、1986年(昭和61年)に人間国宝、1997年(平成9年)には文化功労者に選ばれたが、直後の翌年1月に急逝(享年74)。五代目を継いだ内弟子の吉村雄輝夫も襲名直後の2000年5月に急逝する。翌年弟弟子の吉村輝章が六代目を継いで今日に至る。現在は東京を本拠とし、名取は全国に約800人。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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