中央本町 (足立区)
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中央本町(ちゅうおうほんちょう)とは東京都足立区中部の一地区。 住居表示では中央本町一丁目から中央本町五丁目まで所在する。郵便番号は1,2丁目が〒120-0011、3~5丁目が〒121-0011 旧町名は梅島町、千住町、小右衛門町、東島根町、千住若松町、千住弥生町、千住栄町。
隣接する地域は北は環七通りを挟んで平野および一ツ家、東は青井および弘道、南は足立、西は梅島。
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[編集] 地域
東京都足立区の中央部に位置し、足立区役所などの行政機関が置かれた文字通りの足立区の中枢、それが中央本町である。足立区成立当初から区役所があったわけではないが、1996年(平成8年)に区役所が当地へ移転してきたことで、名実ともに足立区の「中央」になった。 南は東武伊勢崎線、西は国道4号、北は環七通り、東は補助第256号線によって地区の四方を直線的に区画され、南北に長い長方形を成している。 一丁目には中枢機関たる足立区役所を初め、足立農業協同組合、足立保健所、足立東清掃事務所、都立足立高校など、三丁目には都水道局や中央本町センターなどの諸機関・施設が集まり、一部には製作所や鉄工所などの中小企業が多数立地している。 そうした中に多数の都営住宅や新旧の住宅街が広がっている。
[編集] 地名の由来
中央本町は千住弥生町、千住若松町、千住栄町、小右衛門町、東島根町などが複雑に入り組み、土地に疎い人には住所を探すのも困難な土地であった。 さらに昭和30年代に相次いで公共施設などが建てられたことも、早急に住居表示を導入する必要性を増すことになった。 地理的に足立区の中央部にあったことから当初は「中央」の名称が提案されたが、当時すでに大田区に「中央」があったため、「本町」を付加し「中央本町」として実施されることとなった。 住居表示の実施後も、旧町名時代の諸施設や建築物には旧町名が使われているものも多数残されており、忘れられゆく往時の記憶を偲ばせてくれる。
[編集] 交通
[編集] 鉄道
[編集] 道路・橋梁
- 国道4号(日光街道)
- 東京都道318号環状七号線
- 都市計画道路
- 補助第256号線
- 花畑街道
- 五反野きたろーど
[編集] 施設
- 足立区役所
- 中央本町区民事務所
- 中部福祉事務所
- 足立保健所 / 足立保健所生活衛生課 / 足立保健所健康推進課
- 中央本町センター / 中央本町社会教育館 / 中央本町住区センター / 中央本町体育館 / やよい図書館
- 都水道局 / 都水道局小右衛門給水所
- 区立弥生小学校
- 区立栗島中学校
- 東京都立足立高等学校
[編集] 史跡
- 庚申塔(中央本町5-1-9)
- 馬頭観音(中央本町5-7-10)
[編集] 歴史
中央本町の町の根幹は一丁目北部・三,四,五丁目の旧梅島町地区と、一丁目南部・二丁目の旧千住町地区とに分けられる。
北側の旧梅島町地区は江戸時代の小右衛門新田と島根村の流れをひく。これらと周辺の旧村とが1889年(明22年]])に合併して梅島村を形成し、1928年(昭和3年)には梅島町となった。旧村はその後も大字として旧村名を冠し、「東京府南足立郡梅島村大字島根」などと称した。 1932年(昭和7年)に南足立郡の10か村が合併して足立区が誕生すると、これまでの大字がそのまま町名になり、この地域は足立区島根町・栗原町・小右衛門町となった。
一方の地区南側、旧千住町地区を見てみる。 これらの地域はもともとは千住町の一地域であった。 しかし1930年(昭和5年)に荒川放水路が開削されると、それまで地続きであった千住町中心部から分断された。 そのため1931年(昭和6年)に千住町に新たな大字を設けることとなり、若松町、弥生町・栄町が成立した。
1966年に住居表示が実施されるにあたり、これら南北の諸地域が合併し、「中央本町」が誕生した。
[編集] 年表
- 1937年(昭和12年)2月--日 小田島鋳造所(現・千住鉄工所)創業
- 1938年(昭和13年)--月--日 航空機材工業所(後・日本航空機)創業
- 1950年(昭和25年)4月--日 東京都立足立高等学校開校
- 1952年(昭和27年)--月--日 区立千寿第五小学校分校(現・区立弥生小学校)開校
- 1953年(昭和28年)--月--日 区立弥生小学校として独立開校
- 1966年(昭和41年)--月--日 住居表示実施。「中央本町」の成立
- 1981年(昭和56年)--月--日 区立栗島中学校開校
- 1996年(平成8年)--月--日 足立区役所本庁舎が千住より移転
[編集] 関連項目
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