久保陽子
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久保 陽子(くぼ ようこ)は日本を代表する世界的ヴァイオリニスト、教育者。
[編集] ヴァイオリニスト久保陽子の生い立ち
3歳より、父の手ほどきによってヴァイオリンを始め、後に村山信吉に師事する。幼い頃から神童としての力量を存分に発揮し、演奏活動、ラジオ出演、録音などもこなした。当時西洋化の未熟な日本に桐朋が教授として本場フランスから招き入れたジャンヌ・イスナール、そして桐朋の創設者である斎藤秀雄に11歳から師事することとなり、英才教育に更に磨きをかけ、世界に通じるヴァイオリニストとしての基礎的素養を固めた。1962年、桐朋学園女子高等学校音楽科を卒業の年に、世界の桧舞台である「チャイコフスキー国際コンクール(旧ソ連・モスクワ)」に挑み、当時の音楽界では日本人の進出が遅れていた中で、画期的にも若い久保は第3位に入賞という結果を残し、技術と音楽に溢れる日本の神童を世界に広く紹介することとなった。その快挙は、世界よりも国内を驚かし、メディアによって広く日本に知られることとなり、有名人が出演するテレビの『小川宏ショー』にも若き彼女が呼ばれていることからも、その注目度の大きさが窺える。
世界進出のきっかけを握った彼女は、チャイコフスキー国際コンクールにおける実績をバネに更に国際的な音楽家となるべく、フランス政府給費留学生としてその翌年1963年からパリに留学し、ルネ・ベネデッティ、ジョセフ・カルヴェらに師事した。現地においても彼女の存在は目ざましく、留学翌年の1964年直ちに、ヴァイオリンの超絶技巧を必要とする最難関「パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクール(イタリア・ジェノヴァ)」への出場の機会を得ることとなる。日本から現れた小さい久保は、業界でも優勝を囁かれ、日本からは大きく期待されていた。しかしながら、そこで一つの大きな挫折を味わうこととなる。
パガニーニ・コンクールは、悪魔に魂を売り渡したヴァイオリンの鬼神とも呼ばれるパガニーニにあやかったもので、世界の名だたるコンクールの中でも最も過酷な試練である。まだ世界の中で日本の音楽家による地位が高く認められていない当時、とにかく日本人が世界の国際コンクールで上位入賞することは大切なことであり、日本中の音楽教育者たちはそれを願って若い世代の育成に励んでいた。そんな中に現れた機才の久保が挑むパガニーニ・コンクールに、日本の音楽業界は大きく注目していた。
パリ留学において、本場の伝統を充分に吸収した彼女は、パガニーニ・コンクールでも抜群の音楽性と卓越した名人芸を世界に誇示し、世界中が日本人初の優勝を疑わなかったほどであった。しかしながら、世界化の流れで国際的な公平さを求めて審査員に含められていた一人の高名な日本人教育者は、久保がコンクールに際して自分に一度も教えを請うことがなかったことの理由に大きな疑問を持ってしまっていた。そのせいで、突如としてアジアの小国から現れた天才を諸審査員たちは諸手を挙げて歓迎し、どの審査員もが久保の優勝を心から願って注目していた反面、唯一の日本人審査員は久保のことを礼儀知らずと判断してしまい、音楽家としての礼儀も含めてた厳しい評価を付けたのであった。そのことによって、彼女は世界のヴァイオリン界に日本人演奏家が大きく進出する貴重な機会を奪われてしまったのであった(パガニーニ事件)。このことは、日本にとっても、久保にとっても、大きな可能性を失った歴史的一場面であった。尚、このヴァイオリン界の最頂点に日本人が輝くことになるには、庄司紗矢香が1999年に優勝するまで遥か待たされることとなったのである。
当時の音楽界では、国際コンクールにおいてまだ師弟の関係が入賞結果には決定的な意味を持っており、審査員の愛弟子が好待遇されるというのが常であった。更に、開催国の出身者、現地審査員の弟子、国際関係上で発言力の強い国の出身者、審査員の中でも地位の高い者や審査委員長の弟子、それらに該当する出場者がある程度の高い技量を持って現れた場合、他の実力者との多少の技量の差を厳密に審査するというよりも、審査員全体が暗黙の了解でその有望者を優勝させるという雰囲気に包まれてしまっており、実際のところは、実力だけを公正に審査することが徹底されているわけではなかった。現在でもその悪い伝統が全くなくなったというわけでもないが、かなり改善されて世界に公正さが開かれているものの、公正さにおいてまだ未熟であった当時の国際コンクールで日本人が優勝を狙うというのは、誰もが明らかに否定のできないほどの群を抜いた実力を見せない限り到底無理なことであった。
そんな事情を理解して、日本の若き音楽家たちは皆、必ず世界に日本の存在を示してやると心に誓っていた。実力がただ公正に評価される時代が来ることを信じて励んでいた。久保も思いは同じであった。「あの先生とのコネのお蔭で高い一票を入れられた」と言われたくはなく、当時の慣習にあえて目をつむり、日本人審査員の直弟子として教えを請うことを避け、日本人審査員の直弟子として出場はせず、ただ実力によって純粋に世界で結果を出したいと願って乗り込んだのであった。それで結果が出ることこそが、彼女自身に対する最も喜ばしい評価であるはずであったし、そうでなければ本当の意味での国際的発言権と芸術的地位とを日本が手にすることにはならないはずであった。あえてその難しい問題に、野望に溢れる久保は強く立ち臨んだのであった。
実際、彼女の特別な技術と音楽的主張に外国人審査員たちは舌を巻いて高く評価したが、日本人審査員だけは最後まで、同郷として礼儀の大切さを彼女に学んで欲しいと願ってか辛口であった。それに対して周りの審査員が「同じ日本人なのに、なぜキミはあんな素晴らしい陽子に不当な点を入れるんだ?」と口々に言い寄ったことが業界では広く知られている。もしかしたら日本人審査員は、逆に「同じ日本人だからこそ、身近に頼って欲しかった。」とよそよそしく感じたのかもしれない。それも報われず、久保は思いもよらぬ日本人同士の心のすれ違いによって、惜しまれつつも優勝を失い、第2位とされてしまった。このことは、久保にとっても大きな挫折であった。口伝いに業界に知れ渡ったこれらの驚くべき内情について、誤解を防ぐため、当の久保自身は公言を避けている。
実力に反して、パガニーニ・コンクール第2位というレッテルを貼られて世間から見られるようになってしまった久保が、内情の知らない審査員にその先入観を返上するには苦難が続き、翌1965年の「ロン=ティボー国際コンクール(フランス・パリ)」では第2位となってしまう。めげずに更に腕を磨いた久保は、1967年からスイスに渡り、巨匠ヨーゼフ・シゲティにその高い実力を認められ師事することとなる。そして、1967年「アルベルト・クルチ国際ヴァイオリン・コンクール(イタリア・ナポリ)」にて第1位となり、パガニーニ事件を越えた久保が、世界において確固たる地位をようやく得ることとなった。
その後、世界的なソロ活動を頻繁に展開する一方、室内楽でも活発な活動を続け、また教育の面でも数多くの名演奏家を輩出している。ピアニスト弘中孝と結婚し、夫婦による仲むつまじいデュオも多く見られるが、1974年に「桐五重奏団」を結成し、斎藤秀雄の意思を継ぐ桐朋出身の熱い結束によって様々なレパートリーに魂を吹き込み続けた。また、1995年6月には「ジャパン・ストリング・クワルテット」を結成し、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏をはじめ、多くの弦楽四重奏曲にて匠の技を披露し日本中から注目を集めた。後にそれらの録音にも多くの情熱を注がれ、そのアンサンブルの妙技と、個々が対立する強い主張、そしてたぐい稀なロマンティックな演奏スタイルにおいて、弦楽器にしか表現のできない綾が最大限に生かされている。
国際的には個性の弱さが指摘される日本人の演奏家の中にあって、彼女は日本人らしくない濃厚で劇的な演奏が特徴とする、日本が世界に誇ることのできる名ヴァイオリニストである。幼少の頃から鍛えられた確かな超絶技巧は、還暦を過ぎた現在でもそのキレは確かで、常に白熱した演奏スタイルは現在でも劣ることを知らない。
倉敷音楽祭、大垣音楽祭などのディレクターとしても活躍し、現在、東京音楽大学教授として多数の有能な演奏家を世界に輩出させている。
[編集] ヴァイオリニスト久保陽子が国際コンクールで競った入賞者一覧
チャイコフスキー国際コンクール:ヴァイオリン部門(1962年=第2回)
- 第一位:Boris gutnikov(ソ連)
- 第二位:Shmuel' Of ashkenazi(イスラエル),Irina bochkova(ソ連)
- 第三位:久保 陽子(日本),Nina beylina(ソ連)
- 第四位:Albert makov(ソ連)
- 第五位:Edward Is Rook(ソ連)
- 第六位:Vadim selitskiy(ソ連)
- 第七位:Aleksandr Melnikov(ソ連),Betty dzhin Kheygen(カナダ)
パガニーニ(国際ヴァイオリン)コンクール(1964年=第11回)
- 第一位:Jean-Jacques Kantorow(フランス)
- 第二位:久保 陽子(日本),Pierre Amoyal(フランス)
- 第四位:徳江 比早子(日本),宋 倫匡(日本)
- 第六位:Antoine Goulard(フランス)
ロン=ティボー国際コンクール(1965=第11回):ヴァイオリン部門
- 第一位:Liana Issakadzé(ソ連)
- 第二位:久保 陽子(日本)
- 第三位:Vladimir Spivakov (ソ連)
- 第四位:和波 孝禧(日本)
- 第五位:Nejmi Succari(シリア)
- 第六位:Patrice Fontanarosa(フランス)
アルベルト・クルチ国際ヴァイオリン・コンクール(1967年=第1回)
- 第一位:久保 陽子(日本)