京都市交通局600形電車
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京都市交通局600形電車は、京都市電の路面電車である。1937年から1942年にかけて95両が製造された。
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[編集] 登場の背景
昭和初期は、日本の路面電車事業者にとって一大転換期であった。昭和初年からの大恐慌によって乗客が減少しただけでなく、この時期は日本においてもモータリゼーションの揺籃期にあったことから、バスやタクシーがこの時期から飛躍的に発達することになった。地方の路面電車事業者の中にはバスの前に敗退を余儀なくされて路線を廃止するところも出てきたほか、大都市においても大阪市のように民間バスと市電・市バスが熾烈な競争を繰り広げてついには市電の収益が赤字に転ずるところも出てきた。その一方で、大都市においては都市化の拡大に伴って市電の路線網を拡大し、住民サービスの向上を図ることが求められていた。また、これらの新設路線では、東京都電5000形、横浜市電1000形、大阪市電1001,1081形・1501形・1601形、神戸市電J車、K車、L車(後の500形)といったような大正末期~昭和初期に多く製造された3扉大型ボギー車では輸送力過剰になることが予想されたことから、東京都電1000形、大阪市電801形・901形、神戸市電600形などのように、汎用性の高い中小型車を増備する方針に切り替えるようになった。
京都市電においても、大正末期から昭和初期にかけて旧京電東回り線の広軌化(寺町、木屋町通から河原町通へ路線付け替え)や、1921年(大正10年)の都市計画決定で道路拡幅と市電建設が決定した西大路通や九条通など、それまでの市街地とは異なる郊外への路線延伸が進められるようになった。その一方で、車両の新造も1928年(昭和3年)に行われた昭和天皇の即位の御大典に合わせて500形が増備され、翌1929年に200形単車が増備されて以降、不況下にあって乗客が伸び悩んだことから新車の投入がなかった。しかしながら都市計画道路への路線延伸は失業対策事業の一環として順調に進み、また、1935年ごろからはようやく不況を脱しつつあったことから、乗客数もようやく増加に転じる形勢にあったほか、開業時から使用していた広軌1形が老朽化しつつあり、取替の必要に迫られていた。このような状況の下、1935~1936年にかけて改造された514形をテストベッドにして、600形は計画・新造された。
[編集] 概要
600形は製造時期によって601~685・686~695の2タイプに分類される。
601~685は両端に客用扉を備える全長10.7m、窓配置D8Dの小型ボギー車で、1937年から1941年にかけて製造された。601~620は1937年に日本車両で、621~645は1938年に同じく日本車両で、同年には646~675が汽車製造で、676~685は1941年に日本車両で、それぞれ製造された。台車はブリル77Eを模倣して国産化した住友金属工業KS-40L、および日本車両、汽車会社製の同等品が採用された。主電動機は50馬力(定格出力37.5kW)×2、ブレーキはSM-3直通空気ブレーキで、ブレーキ制御弁はDH-16を装備した。
車体はそれまでの角型スタイルから一変して、当時流行の流線型で登場し、さらに塗装も従来の茶色一色から一変して、濃いベージュとグリーンのツートンカラーとなった。この塗装を決定するに当たっては、色彩の専門家の指導を仰いで10種類の塗装試験を在来車に実施したといわれている。前面は埋め込み式の前照灯を行先方向幕の上に取り付け、方向幕の左側に通風器のルーバーを、右側には経由地表示用の方向幕をそれぞれ取り付け、側面は浅い張り上げ屋根と大きな二段窓に、半丸鋼棒でウインドシルと、ウインドヘッダーと水切りを兼ねたガッターラインを取り付け、外板は中央部で垂れて台車部だけが露出したスタイルになっていた。排障器は京都市電では初のストライカーを装備している。内装は鋼製部も含めて木目調で統一され、運転台のパイプ類もケーシングされていた。また、601~675は車内を広く見せるために運転台後ろの櫛桁がなかった。
686~695は1942年に田中車両で製造された。全長が11mに延長されたことにより、窓配置D9Dと窓は1つ多くなっているが、窓1枚あたりの大きさはむしろ減少している。台車はKS-40Lと同仕様の田中車両製であるが、資材難で肝心の主電動機をはじめとした電装品が調達できなかったため、実際に営業運転に出たのは1947年のことであった。側面のウインドシルや中央部の垂れ下がりを省略したデザインは、登場が戦時下ということもあり、「600形戦時タイプ」とでも言うべき簡素な仕上がりになっている。
600形の優美な流線型は、戦後の混乱期に登場した1000形を経て、800形・900形から、軽量化されてリファインされた700形まで続く京都市電スタイルの源流となった。また、600形は同時期に京阪神3都の市電に登場した、神戸市電の「ロマンスカー」700形や大阪市電の「流線型」901形とその改良増備車である2001形・2011形、阪神国道線の「金魚鉢」71形と肩を並べる流線型の路面電車であり、同時期に登場した名古屋市電1400形を含め、戦前日本の路面電車全盛期を代表する形式の1つである。
しかしながら600形にも問題点がひとつあった。それは短い車体にストライカーまで取り付けたことから台車のオーバーハングが長く、必然的に台車中心間隔が狭くなったことから、直線で高速走行すると低速域での良好な乗り心地は吹っ飛んでしまい、激しいローリングを起こしてしまうことであった。このウイークポイントは2600形に改造されて車体を延伸されたグループを除き、廃車時まで解決しなかった。
[編集] 運用
600形は登場後広軌線の全車庫に配属され、軌道中心間隔が狭軌時代のまま狭かった勧進橋以南の伏見線(同区間の軌道中心間隔の拡幅は戦後実施)を除く広軌線の全路線で営業運転を開始した。流線型の美しい車体とグリーン基調の塗色は市民を瞠目させ、「青電」のニックネームで親しまれ、老朽化した広軌1形の置き換えと外郭線の路線延伸の主役としての役割も十分に果たした。しかし、デビュー当初の華やかな時代も長くは続かず、戦火の拡大によって物資は欠乏、修理部品の不足と多発する故障に悩まされたが、京都市内が幸いにして大きな戦災を免れたこともあり、全車欠けることなく戦時下の酷使を耐え抜いた。
戦後の混乱期には600形の後ろに電装解除した広軌1形を連結して親子電車として運行した。他都市では折り返し時の入れ替え作業の困難さなどから、ごく短期間のうちに終了した路線が大半を占めていたが、京都市電の場合は碁盤の目状の路線網を持っており、しかも環状運転を行う循環系統が多く、入れ替え作業を最小限に抑えることができたため、比較的長期間に渡り、この親子電車の運行が継続されることとなった。
戦後の混乱が収束し、京都市電においても新車として1000形・800形・900形が順次就役したが、600形は両数が多く扱いやすいことから京都市電の主役の座を占め続けた。また、1950年代前半には伏見線でパンタグラフの実用試験を実施しており、600形もパンタグラフを取り付けて試験に参加している。
[編集] 20年更新
このように京都市電の主役として活躍してきた600形であるが、戦中戦後の酷使、中でも想定外の親子電車の運転などによって軽量化された車体や台枠に歪みが生じ、老朽化が目立ち始めていた。また、600形も登場以来20年近く経過することもあり、1956年より「20年締替」(20年検査)と称する大規模な更新修繕を、601~685に対して実施することとなった。
内容は下記のとおり。
- 車体及び台枠の補強
- 車体中央部の垂れ下がりの撤去
- 内装の木製部分を木目塗装の金属板に変更
- 運転台後ろに櫛桁取り付け(601~675)
- 室内灯及び方向幕表示灯を蛍光灯に変更。これに応じて電動発電機を装備
- 一部車両の窓枠をアルミサッシに取替え
- 遮断器を電気式に取替えのうえ運転台下に取り付け。併せて接地開閉器を装備
- 台車枠の補強及び軸受のローラーベアリング化
- 方向幕の両側に埋め込み式の通風器を設置(左側の通風器を埋めていた車両が多かった。また、右側の経由地用の方向幕は使われなくなっていた)
- テールライトのカバーの変更
この更新修繕は1962年までの間に毎年10両単位で実施され、面目を一新した。中でも蛍光灯の採用によって、管球を使用している1000形や800形に比べるとはるかに明るい車内となり、900形や700形にひけをとらないものとなった。1963年以降は2600形への改造に移行し、それでも残った4両(612,655,662,667)は、1600形への改造時にこれらの更新修繕を実施した。
[編集] その後
600形は前述のように、1963年からは2600形に18両が、1967年から1600形に63両といったようにワンマン改造を実施され、改造されずに残ったのは、601,603,605,606の4両と戦時型で未更新の686~695の合計14両のみであった。このうち戦時型は1971年に廃車となり、残りの4両も1973年までに廃車となっている。京都市電の標準といえるスタイルを作った、歴史的に重要な車両であったにもかかわらず、600形としては1両も保存されなかった。翌1974年に廃車になった他のツーマン車(700形・800形・900形)が各1両ずつ交通局に保存されたことを考えると、わずか1年の差が明暗を分けたとみられる[1]。交通局は600形の代わりとして、ワンマン化された1600形を1両(1605)保存することになった。
[編集] エピソード
- 600形のデビュー当時、多くの子供が「青電に乗りたい」といって従来から走っている電車をやり過ごしたため、親たちがなだめすかすのに一苦労したという話が残っている。
- 600形の戦時タイプが牛に引かれて壬生車庫に搬入される有名な写真があるが、これは二条駅から搬入されたものと推測される。
- 600形の親子電車を運転していた運転手OBの証言によると、九条車庫で7系統(九条車庫前~九条大宮~四条大宮~祇園~東福寺~九条車庫前、現在の市バス207系統)で親子電車を運転した際、東山安井~祇園間の下り急勾配で行き脚がついてしまい、祇園交差点を曲がりきれずに東山線をそのまま直進して異線進入したという。
[編集] 脚注
- ^ 1970年廃車の500形は保存されているが、この時点では市電全廃の方針には至っていなかったため、技術資料的な意味合いが強いと考えられる。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 京都市交通局編『さよなら京都市電』1978年 毎日ニュースサービス社
- JTBキャンブックス『京都市電が走った街 今昔』2000年 JTB
- 『鉄道ピクトリアル』各号(1978年12月臨時増刊『京都市電訣別特集』、2003年12月臨時増刊『車両研究』)
- 『鉄道ファン』1978年11月号『京都市電の思い出』
- 『関西の鉄道』 1995年32号『京都市交通特集』