人見勝太郎
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人見勝太郎(ひとみ かつたろう、天保14年10月9日(1843年11月30日) - 大正11年(1922年)12月31日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。京都出身。遊撃隊隊士。蝦夷共和国松前奉行。維新後は人見寧(ひとみ やすし)と名乗った。雅号は梅坪。
慶応3年(1867年)に遊撃隊に入隊し、慶応4年(1868年)1月より起こった鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)に奮戦するが敗退。江戸へ撤退した後も徹底抗戦を主張する。遊撃隊を二つに分け、伊庭八郎と共に主戦派を率いて房総に上陸。房総の譜代大名諸藩の結集を図るが芳しい成果は得られなかった。林忠崇率いる請西藩軍と合流し(林は譜代大名当主で格上であるため、名目上の大将は林になる)、小田原藩や韮山奉行所を威圧し、箱根へ出兵。しかし一部の隊の突出により敗退。海軍副総裁榎本武揚らと図って江戸品川沖を脱出し、隊を率いて奥羽越列藩同盟との合流を目指す。
その後隊を率いて北関東から東北地方を転戦し、仙台より榎本の幕府方艦隊と合流、蝦夷地へ渡り、蝦夷共和国下で松前奉行を勤める。明治2年(1869年)5月18日、五稜郭政権軍(旧幕府軍)は明治政府軍に降伏。
戦後は茨城県令などに任命され、明治政府に出仕。実業界に身を投じる。 明治30年代よりたびたび史談会に出席し、談話を残している。
大正11年、死去。享年80。
[編集] 辞世の詩
箱館戦争時に詠んだもの。
- 幾万官兵海陸来 孤軍場戦骸成堆 百籌運尽至今日 好成五稜郭下苦