仙石久尚
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仙石 久尚 (せんごく ひさなお、承応元年8月19日(1652年9月21日) - 享保20年7月23日(1735年9月9日))は江戸時代中期の旗本。大石内蔵助が吉良邸討ち入り後に自首した大目付として有名。通称は次兵衛(じへえ)。官位は従五位下丹波守(たんばのかみ)・伯耆守(ほうきのかみ)。隠居後には丹波入道と呼ばれた。
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[編集] 経歴
承応元年(1652年)8月19日、仙石因幡守久邦(6,000石)の次男として誕生した。母は石河壱岐守貞政の娘。寛文元年(1661年)8月13日はじめて将軍徳川家綱に謁見し、寛文7年(1667年)11月21日、小姓組に入り幕府に出仕。寛文9年(1669年)切米300俵を支給された。延宝4年(1676年)6月18日、奥番小姓、11月26日、中奥小姓と転じ、さらに12月26日には従五位下丹波守に叙任した。延宝5年(1677年)閏12月27日、200俵を加増され都合500俵となる。
天和元年(1681年)12月23日、父仙石久邦の遺領6,000石のうち5,000石までは長男である仙石因幡守久信が継いだが、近江国浅井郡の1,000石は次男久尚に分知され新しい旗本仙石家を興した。またそれまで旗本次男坊として幕府から支給されていた切米500俵もこの時に幕府に返還している。
元禄4年(1691年)12月3日、小姓組組頭。そして元禄8年(1695年)6月10日に大目付に就任した。元禄12年(1699年)12月22日、上総国武射郡と下総国下印幡郡において500石を加増された。元禄13年(1700年)4月には日光山にて三代将軍徳川家光の五十回忌の法事のため日光へ赴いた。
元禄15年(1702年)12月15日に吉良上野介邸討ち入りがあった際には、大石内蔵助は吉田忠左衛門らを仙石邸に派遣して自首して出ている。詳しくは下に後述。
宝永2年(1705年)11月6月、遠江国掛川藩主井伊兵部少輔直朝(3万石)が病にかかると幕府からの使者として掛川藩に赴いた。正徳元年(1711年)7月28日には評定所での働きぶりから縮三端を賜った。また11月22日には先に朝鮮通信使の来日に備えて、東海道・京都・大阪・伏見・兵庫などの順路を巡見した功績で自服四領を賜った。正徳4年(1714年)12月28日には長崎に派遣されている。
享保4年(1719年)1月11日に大目付を退任して小姓組番頭に転じ、享保9年(1724年)1月11日には旗本の最高職である留守居役に就任。この際に上総国市原郡に500石の加増があり、都合2,000石となった。享保16年(1731年)1月16日、老齢のために留守居役を辞した。この際、自服5領を与えられている。また下総国下印幡郡の領地は上総国長柄郡と山辺郡に移された。享保17年(1732年)8月26日に隠居し、養子の仙石久近(但馬国出石藩士仙石政友の子)に家督を譲った。隠居後、出家。
享保20年(1735年)7月23日に死去。享年84。駒込の養源寺に葬られる。法名宗毅。妻は井戸新右衛門幸弘の娘。
[編集] 元禄赤穂事件
元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂吉右衛門は討ち入り後に隊から外れたと見られる)は、吉田忠左衛門・富森助右衛門正因の二名と別れて主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。吉田と富森の両名は、そのまま大目付仙石久尚の屋敷へと向かい、自首手続きを行なった。なぜ久尚に自首したのかであるが、どうやら仙石家が浅野家の遠縁であったためようだ。(久尚の兄、仙石久信の妻は安部摂津守信盛の娘だったが、この信盛の曾孫安部信峯は浅野長矩の従兄弟であった)
久尚はこの両名から事情を聞いた後、仙石家家老井上万右衛門に聴取書をつくらせ、吉田・富森の両人はそのまま仙石邸へ置いて、自身はまず月番老中稲葉正通邸へ立ち寄って、この後江戸城へ登城した。また吉良義央の公子吉良義周も、糟谷平馬を使者にして赤穂浪士が討ち入ってきた旨を稲葉邸に届け出ている。また泉岳寺からも寺社奉行の阿部正喬へ報告があり、町奉行松前喜広からも報告があったので大体書類は出揃い、老中の評議が行なわれ、ひとまず46士は細川綱利・松平定直・毛利綱元・水野忠之の四家に分割してお預けにすることが決まった。午後6時頃、仙石は、部下にあたる徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の三人を泉岳寺へ派遣し、46士に対して仙石邸へ移動するよう指示した。そして、仙石邸での取り調べの後、46士にそれぞれの預かり先を言い渡した後、彼らを四藩に引き渡した。
その後、幕府評定所(大目付4人、寺社奉行3人、町奉行3人、勘定奉行4人で構成)において、久尚らが46士の処分について議論したが、久尚はじめほとんどの評定所参加者が浅野寄りであったため、12月23日に老中へ提出された評定所の最終的意見書は「吉良義周は切腹、吉良家の家臣で戦わなかった者は侍ではないので全員斬罪、吉良の実子上杉綱憲は父の危機に何もしなかったため領地召し上げ。浅野遺臣たちは真の忠義の者たちであるので、このままお預かりにしておいて最終的には赦免するべき」という大変浅野贔屓な内容となった。さすがにこの評定所の意見は将軍徳川綱吉ら幕閣には受け入れられず、赤穂46士は2月3日に切腹と決定され、4日に切腹が四藩で実施された。しかし同時にこの日、評定所は、吉良義周を呼び出して、討ち入りの際の義周は「不埒・不届き」であったとして吉良家も改易にしている。