細川綱利
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
細川 綱利 (ほそかわ つなとし、寛永20年1月8日(1643年2月26日) - 正徳4年11月12日(1714年12月18日))は、江戸時代の国主外様大名。第三代肥後国熊本藩主。54万石。元禄赤穂事件後に大石内蔵助らのお預かりを担当したことで知られる。通称は六丸(ろくまる)。官位は従四位下、左少将・侍従、越中守(えっちゅうのかみ)。娘に松平頼路室、酒井忠真室、松平直丘室、細川利昌室、西園寺公満婚約者(婚姻前に没)がいる。
[編集] 経歴
第二代藩主細川光尚の次男として誕生。母は清水氏の娘(清高院)。正保2年(1645年)11月11日、将軍徳川家光に初めて拝謁。
慶安2年(1649年)12月28日に父光尚が死去したが、六丸こと綱利は6歳と幼かったため通常であれば細川家は改易になるところであった。しかし光尚が幕府に対して肥後領地返上の遺言をしたためており徳川家の覚えがめでたかったことと、細川家臣の懸命の奔走もあって綱利へ相続させるべきか否か幕府内で議論された。結局、慶安3年(1650年)4月18日に綱利への相続が認められたが、領地の支配は幕府目付と親戚の小笠原忠真(小倉藩主)の監督を受けた。承応2年(1653年)12月11日に将軍徳川家綱から一字を貰って綱利と改名。また従四位下侍従・越中守に叙任した。
寛文2年(1662年)3月には弟利重に5000石を分与し、さらに寛文6年(1666年)7月には新田3万5000石を内分支給する形で江戸鉄砲洲に定府の熊本新田藩を立藩させた。
寛文3年(1663年)6月、松平頼重の養女で徳川頼房の娘の大姫(本源院)と結婚。元禄9年(1696年)11月5日、左近衛権少将の官位を加えられた。また元禄10年(1697年)6月、熊本新田藩主細川利昌の弟利武(綱利の甥・のち綱利養子に入る)に5000石を分与した。
宝永3年(1706年)4月嫡男の吉利が死去したため、利武(宣紀)を養子に迎える願いを出し、宝永5年(1708年)1月認められた。 正徳2年(1712年)7月11日に隠居した。正徳4年(1714年)11月13日に死去。享年72。熊本の護国山妙解寺に葬られた。法名は妙応院殿雲岳宗龍大居士。
[編集] 赤穂義士お預かり
元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂吉右衛門は討ち入り後に隊から外れた)は、大目付仙石久尚に自首しにいった吉田忠左衛門・富森助右衛門の二名と別れて、ほかは主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し、幕閣に報告。幕府で対応が協議された。
一方、細川綱利は、この日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より大石内蔵助はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、はじめ泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備をはじめた。しかしその後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中にけが人がおり傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと「堀内伝右衛門覚書」にある(山吉新八郎に斬られた近松勘六のことであろう)。
この間、細川綱利は義士たちを一目みたいと到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石内蔵助と対面。さらに綱利はすぐに義士達に二汁五菜の料理、お菓子、お茶などを出すように命じる。後日には老中の許可をえてお酒やたばこも振舞い、さらに預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与えた。毎日の料理もすべてが御馳走であった。綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召抱えたい旨の希望まで出している。また12月18日と12月24日の二度にわたって自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという凄まじい義士への熱狂ぶりであった。しかし綱利の願いもむなしく、年改まって元禄16年(1703年)2月、赤穂浪士たちを切腹させるようにという幕府の命令書が届く。
この切腹に当たっても綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として大石内蔵助は重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両のお布施を泉岳寺に送っている。
[編集] 関連項目
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