伊東寛斎
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伊東寛斎(いとう かんさい、文政9年5月19日(1826年6月24日) - 明治26年(1893年)7月28日)は、幕末の蘭方医。幕府奥医師。名は盛貞。
文政9年(1826年)、武蔵国府中六所宮禰宜、織田筑後の二男として生まれ、緒方洪庵よりオランダ医学を学ぶ。伊東玄朴の長女を妻とし、紀伊国和歌山藩医となる。また公使タウンゼント・ハリスの治療で名声を挙げる。安政5年(1858年)7月7日、将軍徳川家定の急病に際し和歌山藩医より幕府医師に登用。同年11月23日、法眼に叙せらる。元治元年(1864年)12月16日、法印に昇叙、瑤川院と号す。明治以降、宮中侍医を勤め、明治26年(1893年)没。谷中霊園に葬る。織田研斎は実兄である。