佐野常民
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佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年 (明治35年)12月7日)は、江戸時代後期から幕末の佐賀藩士。明治期には元老院議員となる。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿。勲等は勲一等。爵位は伯爵。称号は日本赤十字社名誉社員。佐賀の七賢人に挙げられている。
佐賀藩士下村三郎左衛門(充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村 現・川副町)に生まれている。 幼名は鱗三郎。1831年に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主から栄寿の名を授かる。 妻は駒子。名は栄寿。栄寿左衛門者。子は佐野常羽。
[編集] 経歴
- 佐賀藩校・弘道館に学び、1838年には江戸へ遊学、古賀侗庵に学ぶ。
- 1839年、佐賀に帰り、弘道館で考証学を、松尾塾で外科術を学ぶ。
- 1842年、佐野家の養女駒子と結婚する。
- 1846年、京都で広瀬元恭の時習堂に入門し、48年には大坂の緒方洪庵の適塾で学び、さらに紀伊で華岡青洲が開いた春林軒塾に入門する。適塾では大村益次郎他明治維新で活躍する多くの人材と知遇をうる。
- 1849年、江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる。江戸では戸塚静海にも学んでいる。
この頃に勤皇運動に傾倒。藩の知るところとなり、急遽佐賀に戻るよう命じられている。
- 1853年、佐賀に帰り、佐賀藩の精煉方頭人となり、藩主鍋島直正から「栄寿左衛門」の名を授かる。
- 1855年、6月に長崎の海軍予備伝習に参加する。同年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設し、佐賀藩から常民ら四十八名が第一期生として参加する。この頃に藩主鍋島直正へ海軍創設の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となる。
- 1857年、佐賀藩がオランダから購入した飛雲丸の船将となり、翌58年三重津海軍所の監督となる。
- 1863年、三重津海軍所で幕府注文の蒸気鑵を製作する。
- 1867年、パリ万博に参加し、パリ万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し、オランダに行き、日進丸の建造を発注する。西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察して翌68年に帰国。
- 1870年、に兵部省兵部少丞に就任し、日本海軍の基礎創りに尽力する。
- 1872年、博覧会御用掛に就任し、日本の産業の近代化をめざすべく、同年3月に日本初の博覧会を湯島聖堂で開催する。
- 1873年、ウィーン万国博覧会事務副総裁に就任して、ウィーン万博に派遣される。博覧会を通じて日本の近代化に貢献し、「博覧会男」の異名を得る。
- 1875年、元老院議員となる。
- 1877年、2月に西南戦争が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の知識を元に、「博愛社設立請願書」を政府に提出するが不許可となり、5月に熊本で有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得る。博愛社総長に東伏見宮嘉彰親王が就任。
- 1878年、大給恒らと博愛社の総副長となる。
- 1879年、日本美術の海外流出を防ぐために、龍池会(日本美術協会)と呼ばれる美術団体を発足し、会頭に就任する。亡くなるまで会長を務め、芸術家の保護と育成に力を尽くす。同年10月には中央衛生会会長に就任する。
- 1880年、大蔵卿に就任するが、翌81年の明治十四年の政変で辞任する。
- 1882年、元老院議長に就任する。
- 1883年、大日本私立衛生会が発足し、会頭に就任する。
- 1887年、博愛社を日本赤十字社と改称し、初代社長に就任する。子爵。
- 1888年、枢密顧問官に就任する。
- 1892年、第1次松方内閣で農商務大臣に就任する。
- 1894年の日清戦争や、1900年の北清事変で日本赤十字社は、戦時救護活動を行う。
- 1895年、伯爵。
- 1902年、東京の自宅で死去、80歳。死に際して勲一等旭日桐花大綬章が贈られる。
墓所は青山墓地。
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