河野敏鎌
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河野敏鎌(こうの とがま 弘化元年(1844年) - 明治28年(1895年)4月20日)は明治時代前期の日本の政治家。
[編集] 経歴
弘化元年(1844年)10月土佐国高知城下に山内家家臣河野通好の長男として生まれる。幼名、万寿弥。
安政5年(1858年)3月江戸に遊学し、安井息軒の門下となる。文久元年(1861年)土佐に帰国し、武市瑞山の土佐勤王党に入る。坂本龍馬らと交友関係を持つ。文久2年(1862年)に五十人組に参加、京都と江戸の間を往来し、国事に奔走した。しかし、文久3年(1863年)に土佐藩論が佐幕派に転換したため入獄、永牢の宣告を受けた。以後、6年間の長きに渡り獄中生活を送り、厳しい拷問に耐え、同志を守り通したと伝えられる。
明治維新後、罪を免ぜられ出獄。同じ土佐藩出身の後藤象二郎の手引きで大阪に上る。後藤の紹介により、江藤新平の知遇を得る。明治2年(1869年)4月侍詔局出仕となる。その後、広島県大参事に転じた。ついで司法大丞兼大検事となり、明治7年(1874年)の佐賀の乱では、大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。裁判ではかつての上司であった江藤新平に対し、峻厳極まりない取り調べを行い、江藤はこれに憤激したという。明治8年(1875年)元老院議官、明治11年(1878年)に元老院副議長となる。明治13年(1880年)文部卿に就任。教育令改正の推進者となった。明治14年(1881年)、農商務省設立に伴い初代農商務卿に就任。しかし、10月のいわゆる「明治14年の政変」によって、大隈重信らと下野した。
明治15年(1882年)4月大隈らとともに立憲改進党結成。副総理(副党首)になる。自由党の解党の影響を受け、改進党解党を主張するが、反対にあい、大隈と脱党する。明治21年(1888年)枢密顧問官となり、憲法の審議にあたった。明治24年(1891年)第一次松方正義内閣で内務大臣、司法大臣、農商務大臣を、第二次伊藤博文内閣で文部大臣をそれぞれ歴任した。明治26年(1893年)功労をもって子爵を授けられる。明治28年(1895年)4月20日死去。享年52。東京都港区の青山墓地に眠る。
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