八橋油田
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八橋油田(やばせゆでん)は、秋田県秋田市の油田。帝国石油国内本部秋田鉱業所が産油しており、産油量は年間約16,000キロリットル(10万バレル)。油井は秋田市八橋・寺内地区を中心として、北は外旭川地区、南は新屋地区まで広がっている。昭和20年代後半から30年代にかけては国内最大の油田であり、産油開始から現在までの累積産油量は国内最大である。
[編集] 秋田の産油の歴史
現在の秋田市八橋・寺内地区は、古くから自然に油の出る場所があったようで、南北に長い八橋油田の地域を流れる川が草生津川(くそうづ・草生津は石油の和名、「臭い水」の意とされる)と呼ばれており、また寺内地区には「寺内油田(あぶらでん)」という地名が現在も残っている。明治維新後、秋田市八橋では、明治2年(1869年)に千蒲善五郎が初めて石油の採取を行ったとされる。
[編集] 黒川油田
秋田では、明治6年(1873年)から外旭川地区や濁川地区(金足濁川)、黒川地区(金足黒川・以上3地区はすべて秋田市北部)で手掘りによる石油の採掘が始まり、のちに日本石油が秋田に進出して石油の採掘調査を行った。明治41年(1908年)に外旭川地区の南に旭川油田が、大正2年(1913年)に黒川油田ができるなど、秋田の油田開発は順調に進んだ。特に、黒川油田は年産15万キロリットル(94万バレル)を超える大油田となり、日本有数の油田として注目を浴びた。黒川油田は昭和初期まで安定してこの年間産出量を維持し、これが元で秋田の石油開発はより一層盛んになった。
[編集] 八橋油田
八橋油田は明治40年(1907年)頃から調査・試掘が行われていたが、昭和10年(1935年)に日本鉱業が本格的に産油を開始した。日本石油も相次いで開発に乗り出したため、八橋油田の産油量は黒川油田と遜色ないほどに多くなり、秋田県は日本国内の70%以上を産油する石油王国といわれた。八橋と黒川で産出された原油は、主に土崎地区と船川地区(男鹿市船川)の製油所で精製されて、日本各地に送られた。そのため、終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日には土崎の製油所が空襲を受け、100人以上の死者を出した。
戦後、八橋油田は帝国石油が開発を受け持ち、各地に油井を掘って産油にあたった。その結果、昭和30年代には年産30万キロリットル(190万バレル)に達するなど、北海道や新潟の油田を抑えて国内最大とあった。しかし、昭和40年代以降その産油量は急激に衰退し、現在の産油量は当時の1割にすら満たない。また、今現在も産油量は減少傾向にある。
八橋油田・黒川油田はともに現在も産油を続けている数少ない油田のひとつである。八橋油田では帝国石油が、現在も数年ごとに試掘井を掘って調査を続けているが、未だに堀り当てられないといわれる。