内田魯庵
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内田 魯庵(うちだ ろあん、慶応4年4月5日(1868年4月27日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。江戸下谷車坂六軒町(現東京都台東区)生まれ。画家の内田巌の父。
[編集] 経歴
旧幕臣の子として生まれる。はじめは政治・実業に関心を持ち、立教学校(現立教大学)や東京専門学校(現早稲田大学)などで英語を学ぶが結局どこも卒業せず、文部省編輯局翻訳係であった叔父・井上勤のもとで下訳や編集の仕事をする。生来の語学好きにより文学作品の愛読者となった。1888年、山田美妙の『夏木立』が刊行されると長文の批評を書き、それが巌本善治の「女学雑誌」に『山田美妙大人(うし)の小説』として掲載され、文壇にデビューした。
翌年、処女小説『藤の一本』を「都の花」に連載。同年ドストエフスキーの『罪と罰』の英訳を読んで衝撃を受け、さらに二葉亭四迷や坪内逍遥と親交を結ぶことによって文学について深く考えるようになり、尾崎紅葉、山田美妙らの硯友社の遊戯文学を批判、1894年に三文字屋金平の名で刊行した『文学者となる法』では当時の文壇の俗物性を皮肉った。また外面的な大文学を唱える矢野竜渓をも功利主義、娯楽主義として批判するなど、文学論争を巻き起こした。
1892年、『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビュー(英語からの重訳)。以後ヴォルテール、アンデルセン、ディケンズ、デュマ、ゾラ、モーパッサン、シェンキェヴィッチ、ワイルドなどの翻訳を発表した。トルストイ『復活』の翻訳(1905年)も有名。その一方小説にも力を入れ、知識人の内面の空白や葛藤をリアルに描いた『くれの廿八日』や社会各層の矛盾を風刺的に描いた『社会百面相』が刊行され、社会小説の第一人者として評価された、そのため、上層階級の性的放縦を風刺した作品『破垣』(1901年)が、風俗壊乱の口実で発禁処分をうけたこともあった。
1901年、書籍部門の顧問として丸善に入社し、翌年ロンドン・タイムズ社と共同で百科事典『ブリタニカ』を販売(百科事典は夏目漱石の『吾輩は猫である』や『三四郎』にも登場する)。丸善のPR誌「学燈」の編集に晩年までたずさわり、匿名で書評や随筆を書いた。1906年に出版されたトルストイの翻訳『イワンの馬鹿』も同誌に連載されたものである。
晩年は一線を退き江戸文学や風俗についての考証、文壇回顧、人物評伝、随筆などに従事した。1925年に刊行された『思ひ出す人々』は、政治小説の時代から二葉亭の死までの回想録で、明治文壇についての史料的価値をもつ傑作とされる。
1929年2月、『下谷広小路』の執筆中に脳溢血で倒れ失語症となり、6月29日、62歳で死去。
従来、小説家としての評価は低かったが、第二次世界大戦以後はその社会小説の意味が再評価されるようになった。画家の淡島椿岳とその養子・淡島寒月との交友により玩具・民芸品・納札・ポスターという視聴覚文化や蒐集品に目が開かれ、丸善の顧問を務めるうちに蔵書や書誌・図書館・出版事情といった文壇以外の世界に関心を拡げることになった。若い頃から知人を訪問し長話する習慣を持ち、多くの趣味の会を主催したため、人脈は多岐にわたり博識に磨きがかけられた。本格的な芭蕉研究から、他愛もない玩具の話にいたるテーマの多彩さは魯庵の意義の一部であり、その思想の鉱脈はいまだに語り尽くされていない。
[編集] 参考書籍
- 伊藤整『日本文壇史』
- 山口昌男『内田魯庵山脈 「失われた日本人」発掘』晶文社、2001年 ISBN 4794964633