円谷皐
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円谷皐(つぶらやのぼる、1935年5月10日-1995年6月11日)は、円谷プロダクション第三代社長で初代会長、演出家、プロデューサー、1991年には、「素敵な出逢いを有難う」で歌手としてデビューした。作詞家谷のぼる(たにのぼる)としても知られる。
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[編集] 略歴
円谷英二の次男として生まれる。円谷一(演出家・円谷プロダクション第二代社長)は兄、円谷粲(円谷映像社長・円谷プロダクション副社長)は弟、円谷一夫(円谷プロダクション第四代社長・同社第二代会長)は息子にあたる。
成城大学卒業後、フジテレビに入社。ディレクター、プロデューサーとして活躍するが、後に退社して円谷プロに入る。1973年に、兄・一が急死すると、代わって社長となり、いわゆる第2次怪獣ブームの後半期を支える。この後、円谷プロは番組製作の受注の大幅な減少から、一時期経営難に陥るが、ウルトラシリーズとは別路線の『土曜ワイド劇場』やアニメーション番組への積極的な進出を図った。アニメブームに乗じて『ザ☆ウルトラマン』(1979年)を製作し、翌年には実写版の『ウルトラマン80』を製作したが、後に続くブームを作り出すことはできなかった。また、この時期に、ウルトラシリーズへの再評価が高まると旧作を中心にした映画の製作を行った。ディズニーランドを手本として、ウルトラシリーズのキャラクターを使ったキャラクターグッズの展開を積極的に行い、キャラクタショップを全国に展開した。ウルトラマンフェスティバルを定期的に行い、ウルトラマンランドを熊本県に常設させた(三井グリーンランドに併設)。これが現在に至るまで世代を超えて多くのファンの心を掴む一因となったことは注目すべきことである。 『電光超人グリッドマン』を製作し、コンピューターワールドや変形合体など斬新な設定が話題となる。今も尚本作のファンは少なくない。
平成時代に入ると、『ウルトラマンG』や『ウルトラマンパワード』を製作し、海外に積極的に進出した。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] シングル
- 素敵な出逢いを有難う(1991年4月1日、日本コロムビア)
- c/w 生きてる限り
- 銀色の少年(1991年10月21日、日本コロムビア)
- 映画『勝利者たち』主題歌
- c/w 風の晩夏
- 和倉のひとよ(1992年1月21日、日本コロムビア)
- c/w 夜霧のエアポート
- 恋ってなんだろう(1995年4月25日、ファンハウス)
- 円谷プロ企業CMイメージソング ※with ナディア・ギフォード
- c/w 夢へようこそ -Welcome to the dream-(「銀色の少年」の歌詞違い)
[編集] アルバム
- 円谷皐追悼盤 素敵な出逢いを有難う(1995年11月21日、日本コロムビア)
- 自ら歌った曲のすべてと、作詞家としての代表作をまとめたCD。ライナーノーツには、総勢13名の関係者がコメントを寄せている。
カテゴリ: テレビプロデューサー | 1935年生 | 1995年没