劉聡
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姓名 | 劉聡 |
年号 | 光興:310年-311年 嘉平:312年-315年 建元:316年-317年 麟嘉:318年 |
廟号 | 烈宗 |
字 | 玄門 |
諡号 | 昭武皇帝 |
生没年 | 生年不詳-318年 |
在位 | 310年-318年 |
父 | 劉淵(第三子/第四子) |
母 | 光献皇后張氏 |
劉聡(りゅうそう ? - 318年、在位310年 - 318年)は中国の五胡十六国時代の漢(前趙)の第三代皇帝。または載とも呼ばれる。字は玄門。廟号は烈宗、諡号は昭武皇帝。父・劉淵の死後に長兄・劉和を殺して帝位を継いだ。八王の乱と塞外民族の大移動で混乱に陥った西晋を滅ぼし(永嘉の乱)、華北に覇を唱えた。
目次 |
[編集] 略要
[編集] 皇帝に即位するまで
劉聡は匈奴の指導者で、五胡十六国時代の端を開いた劉淵の四男(或いは三男とも)で、生母は側室の光献皇后張氏。父の劉淵も非常に教養の高い人物だったが、彼も経典や史書などの書物に詳しく、書に巧みで詩賦に優れており、武芸にも精通していたという。彼が二十歳の時に洛陽に留学し、張華・楽廣などの名門の子弟と盛んに交流したという。
やがて、父・劉淵の下に戻って、父が西晋に帰順していた頃、新興太守主簿を初めとして各要職を歴任し、成都王・司馬穎の下で仕えたこともある。父・劉淵が北単于となると右賢王として立てられ、劉淵が大単于を称すると鹿蠡王となった。
308年(永鳳元年)に劉淵が皇帝に即位すると、楚王に封じられ、車騎大将軍・大司徒・大司馬・大単于を歴任した。310年(河瑞2年)、劉淵が没すると異母長兄の劉和が帝位を継いだ。劉和は指導者としての才覚はあったが暴君で猜疑心が強く、母方の叔父の呼延攸と共に弟の劉聡の武力を恐れこれを除こうとした。劉聡は先手を打ち劉和とその同母弟の劉裕と劉隆、さらに叔父の呼延攸をまとめて殺害し、自ら帝位に就いた。しばらくして、劉聡は同母兄の劉恭を飛び越えて、即位したことに疚しさを感じて、刺客に命じて実兄の劉恭を殺害したという。
[編集] 西晋を滅ぼす
劉聡は即位すると、元号を光興と改元した。早速、父劉淵が悲願としていた洛陽の攻略に取り掛かった。311年(光興2年)夏4月に、東海王司馬越の棺を守って山東に向う王衍の率いる晋軍十余万を羯族の将軍である石勒が壊滅させると、5月には石勒に加えて劉曜、呼延晏(呼延攸の親族)、王弥らの軍勢で洛陽を包囲、翌月にこれを陥落させた。時の西晋の皇帝である懐帝が捕虜となり、洛陽が略奪を受けた挙句に廃墟と化したこの事件を史書は永嘉の乱と呼ぶ。
西晋の皇族の生き残りである愍帝が長安で皇帝を称したが西晋は実質滅亡状態にあり、316年(麟嘉元年)冬11月に愍帝は劉曜の軍勢に降伏、こうして漢は華北をほぼ平定した。
[編集] 内訌の予兆
劉聡は確かに文武に優れた果敢な指導者ではあったが、西晋を滅ぼした頃から奢侈を好み、酒色に溺れるようになる。
元々、劉聡は漢民族の教養に優れながらも、漢族から見れば野蛮的な匈奴の酋長といえる言動が多かった。劉淵の死後クーデターで帝位に就いた後、劉聡は亡父・劉淵の皇后で後妻でもある美貌の単氏(末弟の劉乂の生母で、匈奴の名門の単徴の娘)を自分のものとする。昔からの匈奴の風習では父親の妻妾は、生母以外は全てその後継者のものとなるが、漢文化に影響された単氏はこれを恥じて憂鬱となり自殺している。これを聞いた劉聡は落胆したという。
西晋の二帝を捕虜にしたが、どちらも狩猟の時に戟を持たせて先導役にしたり、宴会の時に杯に酒を汲ませ杯を洗わすなどの屈辱を与えた挙句に、最後には両者ともに殺害している。
また、建国の功臣である陳元達が「陛下。無益な宮殿を造築されるとは何事ですか?!」という激しい諫言に激怒して、これを「鼠子(薄汚い鼠)めが!」と言っては殺害しようとしたり(後に陳元達は勅命で、自決する)、嫡男の劉粲と皇后靳氏の父である靳準の讒言を受けて、皇太弟の劉乂を廃嫡し、北海王に降格し、劉聡の子の劉粲を皇太子とするなど、次第に人望を失う行為が増えていった。一方、廃された劉乂は、既に非業の死で失っていた生母の単氏を思い出しては、繰り返し悲しみに暮れていた。一方、宦官の王沈らに煽られた太子の劉粲は未だに人望があり、この末の叔父である劉乂の存在を恐れ、靳準と密談して刺客を派遣して、叔父の劉乂を殺害してしまった。末弟の非業の死の報を聞いた劉聡は「乂は数多くいたわしの兄弟中で最後まで生き残っていたのだ。これでわしの兄弟はこの世から全て消え去ったのう」と嘆いたという。さらに、靳準の度重なる讒言で、庶長子である驃騎大将軍の河間王・劉易に対して死を賜り、そのために劉易は父の理不尽な命で憤死している。
318年(麟嘉3年)の夏6月に没する。後事を劉曜と石勒に託したが、後継者の劉粲は在位1ヶ月で外戚の靳準に殺され、漢は動乱状態に陥る。劉曜と石勒がこれを収拾したが、やがて華北は劉曜(前趙)と石勒(後趙)の争いの舞台となってゆく。
[編集] 諡号について
劉聡の諡号は昭武皇帝という。 劉淵の諡号は光文皇帝というが、劉淵は後漢及び、蜀漢の後継者と称している。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 呼延皇后
- 張皇后(母方の叔父の左光禄大夫・張寔の娘)
- 武宣皇后劉娥
- 靳皇后
[編集] 子
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