努力
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努力(どりょく)とは、好ましい状態を実現するため、全力を傾けることを指す。
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[編集] 概要
努力は、ある所定の目標を掲げ、そこに到達する事を欲して、邁進することである。これは自発的なプロセスによるものだが、往々にして目標が外部から与えられる事もある。このため「努力すること」も外部から与えられた義務であるかのように考える人もいる。しかしその与えられた目標も、「努力(全力を賭す)する」のか、「ちょっと手を抜く」のか、「だいぶ手を抜く」のかは当人の自主裁量の範疇である。
スポーツ根性モノの漫画に見られるように、少年漫画の世界ではたびたび美化され、現在も「週刊少年ジャンプ」など少年雑誌の基本コンセプトである。
ただし日本語にはがんばろうという言葉があり、他人にこの努力を発揮する事を求める傾向が見られる。中には、他人に努力を強要する人も見られ、強要する側の主観において目標なり基準に達していないと、罰を与えようとしたがる者すら見られる。
努力を求める事は、いわゆるガンバリズムないし根性論であるが、これが近年のサラリーマンや児童などの自殺や不登校・出社拒否(心身の異常)に発展する可能性も取り沙汰され、1990年代よりは社会問題とみなす傾向も見られる。
[編集] 努力と心労・問題
目標に到達するために、努力する事は大切である。ただし、努力の限界を見極めることも必要である。限界を超えた努力を求められた当事者はストレスを受け、その程度によっては精神障害や心身症を来たしかねないからである。この問題では特に「真面目で義務感の強い人」が周囲から期待されて、限界を超えてなお求められる目標へと邁進する傾向が見られ、これによって異常(精神や身体の不調)が発生しうる。
所定の目標を与えてやらせても、目標に達しない場合もある。この場合は数回説教してみて、あるいは通常の訓練で全く上達が見られない場合、与えた目標に無理があり、相手の限界を超えるとして見逃すべきであろう。また「努力している状態」が自発的なものである以上、その「努力する」程度も個人によって異なり、そのモチベーション(意欲)の度合いもやはり個人によって異なる。この場合は、目標を調整して与えなおすか、あるいは細分化するなどして、負担を軽減させることが望ましい。
日本では滅私奉公という言葉もあり、限界を突破して尽力することが美徳とされる文化もあるが、近年では社会の高度化に伴い、個人が一定の段階に到達してある所定の仕事が出来るまでに訓練することに掛かるコストも増大している。このコストに見合う前に「壊れ」てしまっては元も子もなく、また個人にとっても不幸であるため、「そんな努力など、しない方がよっぽどマシ」とすらいえる。このため近年では「ガンバリズムや根性論の否定」といった風潮も起こっている。
その一方で、特に高度経済成長期以降の社会では、達成感を体験できる場が少なく、一つの与えられた課題を努力して乗り越えると、すぐさま次の課題を与えられる傾向が強くなった。
これらは例えるなら「ゴールが明確に定められているレース(マラソン)」と、「ゴールが何処に有るか定かでは無いレース」の関係のようなものである。ゴールが明確に定められたレースでは、ペース配分や限界の予測が付きやすいため、各々の体力にみあった走り方が出来る。しかしゴールが何処に有るかわからないレースでは、ペース配分ができずに途中で力尽きて倒れるか、またはゴールまで余力を残そうと平均的に手を抜くしかなく、結果的にゴールで体力が有り余るという事態も発生しうる。
この部分のケアが足りないと、問題は更に悪化する。
[編集] 努力と教育
山本五十六は「 やってみて、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人はうごかぬ 」と述べている(上杉鷹山の言葉に由来する模様)。この言葉は松下幸之助や本田宗一郎ほか、昭和を代表する財界人に少なからず影響を与えた。
しかし諸々の教育を受ける側の実体験の上では、往々にしてこの「褒めてやる」という部分が欠けているため、達成感による報酬系の活動にブレーキが掛かるケースも見られ、その一方では各々の体験に達成感という節目が乏しい点で、限界の自己認識ないし把握も出来ないといった問題にも発展しうる。
更に言えば目標の設定側自身が「やってみる」ことも大切である。「やってみる」ことで、少なくとも自分にも出来ないような目標を他人に与える事の防止に繋がるだろうし、相手を予め知っているなら、自分の経験で推し量り、与える目標を相手の限界に見合った量に調節する事も可能だ。
理想的な教育の観点から言えば、以下の点での経験を積むことが望ましいといえよう。
- 努力する喜びの体験
- 消化可能な課題の提供
- 達成感の育成(成功した際の祝福・褒賞など)
- 自発的な努力
- 目標に至る計画を検討させる
- 消化ペースの自己確認を促す(進捗報告など)
- 方法を工夫させる
- 問題発生時のフォロー
- 計画の見直し
- 過剰に支援または肩代わりしない
- 過剰に放任ないし放置しない
- 負担の軽減(主体となる目標への注力を促すため、末梢の支援をする)
計画を立てるに行為に関しては、最初は経験不足から無茶な計画を立てがちであるため、これをよく見直させることが大切である。例えば戦略と戦術といった段階に区分けし、計画の目標に掲げる戦略と、実際の状況に合わせて適時変更する計画としての戦術は使い分けることが望ましい。この際には、上意下達的に計画を与えるのではなく、問題点を具体的に指摘し、これの解決策を更に立案させ、当人の自主性を尊重することが理想的である。
またこの計画監修をしてなお、計画の実行に問題が出た場合は、計画・実行者自身のみならず監修した側にも責任が発生する。その場合はフォロー(問題の解決に向けた具体策の検討と、目的以外の負担を減らすための助力など)も大切である。
家庭教育の面でも、努力して達成した際に褒める・褒められることは、大切な体験であると考えられている。
[編集] 努力と罰
教育の範疇では、当人が当人なりに努力しているにもかかわらず、更に「もっと努力できるはずだ」として罰するべきではないと、多くの教育者や育児書が指摘している。
罰はブレーキにしかならず、萎縮しか生まない。これは「努力する事」が「罰を逃れる事」と結び付いてしまうため、ある一定の注力で目標を達成できるなら、それ以上を望まなくなってしまい、達成した喜びを感じなくなってしまうと考えられる。
仕事として目標を達成できないのであれば相応の罰(説教や叱責など)も必要だろうが、少なくとも教育の面では、まず「達成する喜び」を学ばせる事が必須である。この達成の喜びが努力するモチベーションを喚起すると一般には考えられており、この経験が足りない者は努力する事を嫌う傾向が強い。このため努力が足りなくて失敗するというような場合は、まず成功経験を積ませるほうが先決であろう。これは「仕事として」努力を求める場合でも、仕事と教育は並行して行うことで「更に大きな仕事を与えられる=能率の向上」にも繋がるため、仕事の上でも罰するばかりではないほうが良いのかもしれない。
また、努力してなお目標に到達できない場合は、元より与えられた目標に無理があったとも考えられ、これは目標を与えた側の責任であることから、目標の調整と再提示のほうが能率的である。
[編集] ゆとり教育と努力
近年のゆとり教育では、頑張っても相対的な評価しか出ない場合は「努力して高いレベルを達成しても、明確に褒めてもらえない」という問題もあるが、また課題は一律で比較的「ゆるい」にもかかわらず、頑張ってなくても見咎めない傾向もあり、「それほど苦労しないでも達成できてしまう人が少なからずいる」と、別の意味で問題視されている(→浮きこぼれ)。
実際の教育現場では、諸般の事情で個別に目標を設定して、個別に対応することが難しいのかもしれないが、努力をすることの喜びを体験する事は大切であると考えられるため、関係各所では方策に苦慮する様子も見出せる。