本田宗一郎
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本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、1906年11月17日 - 1991年8月5日)は日本の実業家。 本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。正三位 勲一等 ミシガン工科大学名誉工学博士。 ソニーの井深大などと並んで、戦後日本を代表する技術者・起業家として世界的に知られている。血液型はA型。
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[編集] 略歴
- 1906年 静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜地区)で鍛冶屋をしていた本田儀平の長男として生まれる。
- 1913年 光明村立東尋常小学校に入学する。翌年初めて自動車を見る。
- 1917年 浜松町和地山連兵場でアート・スミスの曲芸飛行を見る。初めて飛行機を見る。
- 1919年 二俣町立尋常高等小学校入学。
- 1922年 高等小学校卒業後、東京・本郷区湯島(現在の文京区)にある自動車修理工場「アート商会」(社長 榊原郁三)に入社(当時の表現で「丁稚奉公」)。
- 1928年 アート商会に6年勤務した後、のれん分けの形で浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ一人だけが社長の榊原郁三からのれんわけを許される。
- 1935年 磯部さちと結婚。
- 1937年 自動車修理工場の事業を順調に拡大させ、「東海精機工業株式会社」(現・東海精機株式会社)の社長に就任する。「アートピストンリング研究所」を浜松市山下町に設立してピストンリング開発に取り組む。しかし学問的な壁に突き当たり、同年、浜松高等工業機械科(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、3年間金属学の研究に費やす。
- 1939年 アート商会浜松支店を従業員に譲渡し、ピストンリング製造を手がける「東海精機重工業株式会社」を興し、自動車部品製造に乗り出す。
- 1942年 長男・博俊(元「無限」代表取締役)誕生。東海精機重工業がトヨタから出資を受けたことに伴い、同社の社長に「トヨタ中興の祖」とも呼ばれた石田退三を迎え入れ、自らは専務に退く。
- 1944年 手作業で1本1週間かかっていた航空機のプロペラの切削自動化、30分で2本仕上げる切削機を開発し、軍需省より表彰される。この時点で40件を超える特許を取得。
- 1945年 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒産。自らの持つ東海精機重工業の株を全て豊田自動織機に売却して同社を退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。本人曰く「尺八を吹いたりして遊んだ。」
- 1946年 10月、浜松市に本田技術研究所設立。39歳の宗一郎は所長に就任。
- 1948年 次男・勝久誕生。本田技研工業株式会社を浜松に設立。宗一郎、同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。二輪車の研究をはじめる。
- 1949年 後にホンダの副社長となる参謀藤沢武夫と出会い、以後藤沢武夫に経営の一切を任せ、共にホンダを世界的な大企業に育て上げる。
- 1961年 藤沢武夫とともに「作工会」という財団を立ち上げ、主として苦学生である科学者の卵に、匿名で奨学金を渡した。
- 1973年 中華人民共和国を訪れた帰国直後の会見で、本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任と発表。研究所所長は続けた。
- 1974年 さち夫人とともに世界中のお世話になった人を訪ねる。
- 1981年 勲一等端宝章受賞。
- 1983年 取締役も退き、終身最高顧問となる。
- 1989年 日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。
- 1991年 8月5日東京・順天堂医院で肝不全のため84歳8ヶ月で死去。正三位・勲一等旭日大綬章が贈られる。
[編集] エピソード・名言
- 宗一郎が11歳の時、浜松に飛行機の曲芸飛行が行われると知り、親の財布からお金を盗みこっそり夜中に家を出て父親の自転車で不自然な格好でペダルを漕ぎ(いわゆる三角乗り)一晩かけて浜松の飛行場を目指した。
- 20歳当時、人と同じことをするのが嫌いだった宗一郎はまだめずらしかった洋服を好んで着ていた。
- 本田は会社の判子を藤沢に預け、会社の経営は全て藤沢に任せていた。本田自身は技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければ、ここまで会社は大きくならなかった」と述べている。この言葉の裏には「お互い全力で切磋琢磨することで現在のホンダが築きあげられた」という意味が込められている。また両者は、「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、本田と藤沢は身内を入社させなかった。盟友の井深大が、自らの会社名を「ソニー」と名付けたことに対し、後年本田は自らの名を社名に冠したことを非常に後悔したという。
- 鈴鹿製作所の完成前に、鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話。また、とても便利とはいえない三重県鈴鹿市に工場を置いたのは、担当の役人の、接待や金銭など一切関係なく、「渋茶一杯」で誠実に説明してくる熱意に惹かれたからだ、という。ちなみにその時宗一郎は岐阜県大垣市とどちらかに工場を建設する予定だったが、宗一郎が大垣市を訪れたとき、クーラーの効いた部屋でオレンジジュースを出されたという。
- 有名な言葉には「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」1988年、初めてF1ワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナの記念パーティの席でセナに対し「来年も最高のエンジンを作ってやるからな」等がある。また、本田の膝下で働いていた社員達は宗一郎を「オヤジ」と呼んで慕っていた。
- F1でのホンダターボエンジンの圧勝を面白く思わないFISA(現FIA)はターボエンジンを禁止、NAエンジンのみの規制を掛けた。これに憤慨したチーム監督の桜井淑敏らは本田宗一郎に直訴したが、それを聞いた本田は「ホンダだけがターボ禁止なのか? 違うのか、馬鹿な奴等だ。ホンダだけに規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。で、なんだ話ってのは?」と言い、桜井等は「いいんです、何でもありません」と嬉しくなってしまった。
- 南青山の本社ビルを新築する際、本田は「万が一地震が起こったときに、割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにせよ」と指示し、このビルには全フロアにバルコニーがつけられたという。また、藤沢武夫も全く同じ指摘をしていたという。
- 生前から自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけないと公言。実際、遺族はこの遺志に従い通夜・社葬を行わなかった。そのかわり控えめな社葬と言える「お礼の会」が東京都港区青山のホンダ本社・和光・鈴鹿・熊本の各製作所で執り行われた。
- 浜松でアート商会創業当時より、本田は派手なシャツやネクタイを締め、朝から晩まで試作車のバイクを乗り回した。田舎では、そんな姿が揶揄されたり、資金繰りが面倒(地方の金融業者は、借りた金をすぐに回収にかかっていた)だったりで、都会でのびのびと仕事をしたいと考えていた。
- 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したり「遊んで」いたという。しかしこの遊びの中から自転車にエンジンをつけることを思いつき、後のオートバイ研究が始まるのであった。
- 勲一等瑞宝章受賞授賞式の際に、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとした(周囲に止められ、礼服で出席)。
- 宗一郎は経営難に陥ったときマン島TTレース(二輪)やフォーミュラ1〈四輪)などの世界のビッグ・レースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚をはかることで経営を立て直した。「苦しいときの神頼み」ならぬ「苦しいときのレース頼み」と呼ばれている。
- 上記のような神話的エピソードが喧伝されることについて、ホンダ副社長だった藤沢武夫は深い危惧を覚えていたという。いわゆる「本田宗一郎伝説」が、長期的に見てホンダにとってマイナスになりかねないと考えていたかららしい。
- 親族を会社に入れなかったという件に関しては正確ではなく、実は早世した次男を後継者にしたがっていたという説や、三菱銀行に融資を求める際、渋る銀行側に対し世襲はしないと約束して融資を受けた説がある。また宗一郎の実弟の弁二郎はホンダの重職にあった。ただし、実弟も宗一郎と同様にアート商会(本家)で奉公し、年季が明けた後に宗一郎の経営する浜松支店に職人として勤務し、それ以後も宗一郎に付き合っているだけであり、本田技研および本田技研工業の発足以降に縁故入社したというわけではない。
- 二代目社長の河島喜好は、大学卒業後に就職先に困っていたところ、偶然に父が宗一郎と顔見知りで、たまたま自宅からも近かったので父と一緒に宗一郎を訪問したら、「じゃあ、明日からウチに来るか」と誘われて本田技研に就職したというエピソードがある(当時のホンダは、個人事業の延長で大らかな時代だった)。
- 本田が逝去した91年、鈴鹿で行われたWGPで長嶋茂雄が大会名誉顧問にされ、そこでのインタビューで「このスズキサーキットで・・・」以下云々のコメントを発し、鈴鹿サーキット、ホンダ関係者を突然ライバルメーカーの名前を出したことによって顔を真っ青にさせていた。
- このように「本田宗一郎伝説」はかなり都合良く脚色されている面も多い。4輪では空冷エンジンに固執したり、2輪では2ストロークエンジンを頑なに否定したりという技術的な誤りも含め(2輪の2ストロークエンジンは彼の死後、環境基準に適合できなくなって廃れてゆくが、それは宗一郎の意識とは関係がない)、宗一郎の歩みには間違いも多かった。ただし、時代背景を考えると、当時の小型車であれば空冷エンジンという選択は特に間違いでもなく(実際にポルシェは90年代まで大排気量の空冷エンジンを製造している)、2ストロークエンジンは構造上排気ガスの汚染度が4ストロークより高いという問題があり、現在は廃れる流れであるなど、それらの選択は、企業としてのこだわりや思想の範疇でもあり、単に宗一郎というカリスマを批判するための批判かと思われる。
[編集] 盟友 藤沢武夫
ホンダ=本田宗一郎と見る向きもあるが、副社長だった藤沢武夫の存在を語らずにホンダを語ることはできない。本田宗一郎なしに藤沢武夫の功績はなかったかも知れないが、藤沢の存在 なしに現在のホンダは到底ありえなかったと見る者が多い。本田の数々の逸話は、藤沢が創作・脚色したものも多いという。(社長引退のエピソードなど)
[編集] 参考文献
- 八重洲出版 『HONDA 50years ホンダ50年史』1998年
- ワック 井出耕也/著『ホンダ伝』2002年
- 三樹書房 中部博/著『定本 ホンダ宗一郎伝 飽くなき挑戦 大いなる勇気』2001年
- 文芸春秋 藤沢武夫/著『経営に終わりはない』1998年
- 文芸春秋 佐藤正明/著『ホンダ神話 教祖なき後で』1995年
- 講談社 城山三郎/著『本田宗一郎との100時間 人間紀行』1984年
- 朝日新聞社 海老沢泰久/著『F1地上の夢』1987年
- 徳間書店 富樫ヨーコ/著『いつか勝てる ホンダが二輪の世界チャンピオンに復帰した日』1988年