北丹鉄道
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北丹鉄道(ほくたんてつどう)とは、かつて日本に存在した鉄道会社である。
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[編集] 概要
京都府北部、福知山市の福知山駅から加佐郡大江町(現在は福知山市の一部)の河守駅(現在の北近畿タンゴ鉄道宮福線大江駅近傍)までを結んでいた。1923年9月22日開業、設立当時は、北丹軽便鉄道株式会社という名称だったが開業前に改称している。
本来は福知山駅から宮津線を短絡する目的があったが、宮津線の由良川架橋点が当初の予定より河口近くに変更されたため、河守駅から先の建設は断念した。その後、日本鉄道建設公団が河守駅から宮津駅までを結ぶ路線を宮守線として建設することになり、1966年に着工された。
しかし、1969年に沿線の河守鉱山が閉山したことによって北丹鉄道の貨物輸送は激減し、経営が成り立たなくなり、宮守線を待つことなく1971年3月2日に由良川治水事業を名目に運行休止、程なくバス事業も営業休止に追い込まれた。1974年に鉄道路線が正式に廃止されるとともに会社は解散、バス事業については京都交通株式会社に譲渡している。
北丹鉄道の廃止によって盲腸線と化す可能性のあった宮守線は、1975年に福知山~河守(大江)間が建設予定線として追加され、1979年にこの区間についても着工された。なお、北丹鉄道が望んでいた鉄道路盤の国による買い上げは由良川治水事業により建設ルートが変更されたため実現しなかった。
宮守線の建設工事は国鉄再建法施行により中断するものの、第三セクターに引き継がれることとなり、1988年に宮福鉄道(現在の北近畿タンゴ鉄道)宮福線として開業している。
[編集] 鉄道事業の実際
路線の多くは由良川沿いに敷設されていたが、建設資金の乏しさから河川敷を線路用地に使っており、そのため由良川に多発した水害の被害を度々受けた。元々輸送量が少なかったこともあり、廃止まで常に経営難が続いていた。中でも資金難で保守が行えないことによる軌道の劣悪さは想像を絶し、過去に日本で旅客営業を行った鉄道の中でも最悪と言えるものであった。
度重なる水害でバラスト(砂利)が流失した上に補充もできず、道床も泥で埋まって排水されずに放置されたため枕木が激しく腐食してレールを固定する犬釘が外れ、カーブ区間では各レールごとの直線に戻ろうとする弾力によってカーブ全体がレールの継ぎ目を頂点とした多角形状に変形していた。さらに犬釘の脱落によって軌間が広がり列車が落ち込んで脱線する事故が多発した。この危険な状態でもなお枕木交換ができず、営業末期には保線担当者がやむなくボロボロの枕木の犬釘周りに小さな木釘を何本も打ち込んでせめてもの補修を試みていたという悲惨さであった。
劣悪を極める軌道状況のため最高速度はわずか25km/hに制限されていたが、客車の老朽化もひどく、特に古い二軸車両ではこの低速ですら振動で天井・壁・床が歪み室内全体が変形するという状態のまま運行されていた。
極端な低速運行を強いられることにより、開業時福知山-河守間12.4kmの所要時間33分であったのがやがて45~52分にまで低下した。乗客減も進み、荒廃してとうに末期症状を呈していた北丹鉄道がそれでも運行を続けたのは、将来の宮守線との接続および国による買い上げを目論んでのことであった。
ネコ・パブリッシングの「消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪」(寺田裕一・著)では、山鹿温泉鉄道、寿都鉄道、野上電気鉄道とともに「悲惨な末路を迎えた鉄道」とされている。この4社はすべて外的要因により路線が廃止になり、会社解散に追い込まれている。
[編集] 歴史
- 1919年 路線免許交付。
- 1921年 当初の北丹軽便鉄道から北丹鉄道に社名変更。
- 1923年9月22日 福知山~河守間が開業。
- 1971年3月2日 福知山~河守間休止。
- 1974年2月28日 福知山~河守間廃止許可。
[編集] 路線
[編集] 路線データ
[編集] 駅一覧
福知山駅 - 福知山西駅 - 下川駅 - 上天津駅 - 下天津駅 - 公庄駅 - 蓼原駅 - 河守駅
[編集] 接続路線
[編集] 関連項目
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