野上電気鉄道
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野上電気鉄道(のかみでんきてつどう)は、かつて和歌山県海南市の日方駅から同県海草郡野上町(現在の紀美野町)の登山口駅までを結ぶ鉄道路線である野上線の運営や、同線沿線地域を中心にバス事業を行っていた鉄道会社である。野上電鉄、野鉄と呼ばれていた。現在はその名を野鉄観光にのみ残す。
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[編集] 概要
地場資本による経営で大手私鉄の傘下に入らず独立した経営を行っていたが、モータリゼーションの進展による乗客の減少から経営難に陥り、1971年に全線廃止の方針を打ち出し、第一段階として沖野々~登山口間の廃止を国に申請している。ところが直後に起こった第一次オイルショックにより鉄道見直しの気運が高まった事を受け、一旦は廃止申請を撤回し、国や海南市など沿線自治体の補助金を受けることで延命した。しかし1992年に国の地方鉄道への欠損補助金見直しにより栗原電鉄とともに支援打ち切り対象に指定され、この時改めて全線廃止、会社解散の方針を打ち出した。そして頼みの綱であった補助金が打ち切られると、方針通り1994年に野上線を廃止し、バス事業も海南市の運送会社大十株式会社に譲渡して会社は解散した。末期は退職金も払えないほどだったと言われていた。引き継いだバスは大十(2004年から子会社の大十バス)が大十オレンジバスとして運行している。
末期の野上電鉄は補助金に頼り切り、ワンマン化や大手私鉄の経営指導を受け入れるなどの自助努力を怠っていたとの指摘もある。補助金が打ち切られるとあっさりと廃止し解散の道を選んだことはこういった指摘の裏付けともなろう。
ネコ・パブリッシングの「消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪」(寺田裕一・著)では、山鹿温泉鉄道、寿都鉄道、北丹鉄道とともに「悲惨な末路を迎えた鉄道」とされている。この4社はすべて外的要因により路線が廃止になり、会社解散に追い込まれている。
[編集] 沿革
- 1913年(大正2年)8月3日 野上軽便鉄道設立。
- 1916年(大正5年)2月4日 日方~紀伊野上間が開業。
- 1928年(昭和3年)3月29日 紀伊野上~生石口(後の登山口)間が開業。
- 1928年(昭和3年)9月24日 野上電気鉄道に社名変更。
- 1958年(昭和33年)6月12日 生石口駅を登山口駅に改称。
- 1994年(平成6年)4月1日 日方~登山口間廃止。
[編集] 鉄道事業
海南市の日方から海草郡野上町(現在の紀美野町)下佐々の登山口駅までの野上線1路線を有していた。また、かつては貨物事業も行っていた。
登山口駅から高野山(高野町)までの延伸を計画していた時期もあり、1922年(大正11年)に紀伊野上~生石口(後の登山口)~大木~下神野村(美里町神野市場、美里町は現在紀美野町の一部)間の免許を取得、1925年(大正14年)に大木~下神野村間が失効するが、登山口駅まで全通させた1928年(昭和3年)に大木~神野市場~高野町の免許を取得し、生石口~神野市場間は1930年(昭和5年)までに着工された。しかし延伸について株主や社内で意見が分かれたため建設は中止された。その後も免許を維持していたが1964年(昭和39年)に失効させている。延伸区間では一部の橋脚が完成していたが、その後の台風で倒壊し、そのままになっている。地元は野上電鉄に倒壊した橋脚の撤去を求めたが、何の対策も取られないまま会社が解散してしまった。
かつては職員の態度も温厚で、遠来のファンには飛び込みでも車庫の見学を許可していたが、末期は厳しい経営環境から会社の態度は硬化し、一般のホームからの撮影はおろかテレビ局の撮影すら断るような状態となっていた。一部の鉄道ファンの悪質な行動が原因ではないかとする声もある。ただ、鉄道ファンではない日常の利用客に対しても罵詈雑言を浴びせる等の行為を行っていたため、地元での評判も悪くなっていたとの指摘もある。
[編集] 野上線
[編集] 路線データ
[編集] 利用状況
- 1985年度 旅客輸送量:87.4万人、旅客収入:189百万円。
- 1990年度 旅客輸送量:64.5万人、旅客収入:150百万円。
※出典:平成18年刊行和歌山県統計年鑑
[編集] 駅一覧
日方駅 - 連絡口駅 - 春日前駅 - 幡川駅 - 重根駅 - 紀伊阪井駅 - 沖野々駅 - 野上中駅 - 北山駅 - 八幡馬場駅 - 紀伊野上駅 - 動木駅 - 龍光寺前駅 - 下佐々駅 - 登山口駅
- 日方駅の次には連絡口駅があり、JR海南駅との連絡口が設置されていた。正式には日方駅構内の別ホーム扱いで運賃計算上は日方駅と同一であった。このような経緯上、日方-連絡口間のみの利用はできなかった。また、連絡口での降車は紀勢本線への乗り換え客に限る旨看板があった(ただし誤って降車した乗客には例外的に海南駅改札経由での出場が認められたようである。また、『鉄道ピクトリアル』にかつて掲載された記事によると、海南駅の裏口として国鉄のみの利用客も要領良く取り扱っていた時期もあったという)。登山口方面行は、JRからの乗り換え客が居ない場合は、連絡口を通過していた。
- 途中、重根駅と紀伊野上駅(かつては北山駅でも)で列車交換が可能であった(列車本数の少ない時間帯では併合閉塞を行っていたため紀伊野上駅での交換は無かった)。
- 案内上は登山口駅行きを「上り」、日方駅行きを「下り」としていた。
[編集] 接続路線
[編集] 車両
車両は元阪神電気鉄道の小型車や、富山地方鉄道の小型車が中心で、更に阪急電鉄の草創期の車両まであって、「動く博物館」とも呼ばれた。アーモンドチョコレート(明治製菓)の広告や「これが淡路かニースじゃないか」という淡路島のホテル「アイランドホテル」の奇抜な広告が塗装されていた車両があったことでも知られる。
- デ10形
- 11~13 - 富山地方鉄道デ5031・5035・5037の譲受車。存続と補助金給付が決定したことから購入したもので、唯一のパンタグラフ集電であった。なお、末期は11・13のみが使用されていた。
- モハ20形
- 23 - 阪急1形26の車体流用車。末期は使用されておらず、日方車庫の連絡口駅側の側線に留置されていた。
- 24 - 阪神601形604の譲受車。1990年頃に明治製菓のCM撮影のため広告車となったが、契約期間終了後も塗色が変更されることなく廃線を迎えた。
- 25~27 - 阪神701形704・710・707の譲受車。後から入った27だけ尾灯の取り付け位置やパンタグラフの位置が異なる。
- モハ30形
- 31 - 阪神1121形1130の譲受車。
- 32 - 阪神1141形1150の譲受車。
モハ20形・モハ30形の集電装置は譲受時にZパンタに交換されている。
- クハ100形
- 101 - 阪神1111形1118の譲受車。
- 102・104 -阪神1121形1128・1122の譲受車。
譲受に際して電装解除されている。モハ20形・モハ30形に牽引されていた。なお、末期は104のみが使用されており、101・102は登山口駅の引き上げ線に留置されていたが、実質的に廃車状態であった。
デ10形を除いて、いずれも下回りは南海の廃車発生品といわれるものを使用していた。
これらの車両が老朽化していたため、水間鉄道から7000系導入によって廃車された501形(元・南海1201形電車)を譲り受けて更新しようとしたが、鉄橋の耐荷重をオーバーしていたことが分かり、一度も営業運転に就かないまま廃車にしてしまったこともあった(なお、それ以前にも阪神861形を譲受したものの同じ理由で短期に廃車させた前歴がある)。また、補助金を前提に新車(80形・武庫川車両が設計)を投入する計画も立てたが、あまりにも補助金を当てにしすぎた経営に対し沿線自治体が難色を示し断念、その後廃線となったため実現しなかった。
[編集] 廃線後の状況
- 日方駅および構内の車庫は更地となり、かつてをしのばせる物は何もなくなった。現在は鉄道とは関係なく鉄骨などが放置されている。
- JR海南駅裏手付近(連絡口駅近く)から沖野々駅付近までの廃線跡は、海南市によって自転車専用道として整備されている。また、八幡前、幡川、重根の各駅の跡は公園となっており、駅名標を模した看板が立てられている。
- 路盤の一部は並行する県道の拡幅に利用されている。沖野々駅付近から北山駅付近までと、下佐々駅付近から登山口駅付近までの廃線跡は完全に県道に取り込まれており、痕跡はない。
- 登山口駅跡は、代替バスである大十バスの車庫となっている。
- 鉄道と並行して野鉄バスが運行されていた。鉄道廃止後は、大十バスが運行している。
- 同じく沿線で、野鉄タクシーが運転されていた。現在は、オレンジタクシー。
- モハ20形24号(アーモンドチョコ塗装車)と、モハ30形32号の2両は、その車体の譲受元である阪神電鉄に里帰りし、茶色の塗装に戻された上、尼崎センタープール前駅の高架下に、大切に保存されている。参考
- 下佐々駅跡付近の公園に、モハ20形27号と、モハ30形31号が保存されている。2両は別の場所に保存されており、双方とも屋根付きである。
[編集] 外部リンク
- 野鉄観光
- 野鉄資料館(個人サイト)
- 写真工房SEACHIGASAKI(野鉄の写真集の作者のサイト[販売もしている])
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