北条高広
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北条 高広(きたじょう たかひろ、永正14年(1517年?) - 天正15年(1587年?))は、戦国時代の武将。長尾氏(上杉氏)に仕えた。北条広春(安田広春)の子(養子で実父は北条高定とも)。北条景広・北条高広(父と同名)・女子(沼田朝憲妻)の父。丹後守・安芸守。
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[編集] 出自・人物
北条氏(きたじょうし)は安芸の毛利氏と同族であり、血筋の上では安芸毛利氏より正嫡である。その誇りからか、代々の当主は家祖大江広元の広の字を用いている。なお、越後の毛利一族には安田氏がおり、高広の父(養父)の広春はもともとは安田氏の出身で、北条輔広の養子となり、北条氏と安田氏の当主を兼任していた。1530年ごろ、広春が没し、北条氏の家督は高広、安田氏の家督は安田景元が継承した。
高広は武将としての器量に優れ、「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」と謳われた。事実、上杉軍団の行く所、彼の武名は大きく轟いたという。しかし、家中一の粗忽の者で、主君の上杉謙信も気を揉むことが多かったといわれている。また、上述の経緯から、安田氏の景元とは特に対立関係にあったようで、高広の謀反を謙信に報告したのは景元である。
[編集] 謙信時代の動向
高広は越後の戦国大名である長尾氏に仕え、長尾為景・長尾晴景に仕え、戦功を積んでいたが、1554年、長尾氏に敵対する甲斐の武田信玄と通じて北条城において主君・長尾景虎に反乱。しかしこれは翌年、長尾軍の反攻を受けて降伏した。その後は景虎(上杉謙信)に再び仕え、奉行として活躍した。1563年には上野国厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任されたのである。これを見ても、高広が武将として優れていたのがうかがえるが、1567年、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。しかしこれは翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれたため、高広は北条氏政の仲介のもと、再び上杉氏に帰参し、以後は上杉氏の家臣として忠実に仕えた。沼田氏で内紛が起こり、娘婿の朝憲が殺害されると、沼田氏の家臣団の求めに応じ、朝憲の父の沼田顕泰(万鬼斎)とその子の沼田景義を会津に追放している。
[編集] 御館の乱と没落
1574年に隠居し、家督を嫡男の景広に譲った。1578年、謙信が没すると出家し安芸入道芳林と号す。御館の乱では、子の景広と共に上杉景虎を支持して上杉景勝と戦うが、北条城などを落とされ、景広は戦死し、自身は武田勝頼のもとへ走った(実父とされる高定も景勝に殺害されたといわれる)。その後、勝頼の取り成しで景勝に仕えた(あるいは武田氏の滅亡後に滝川一益に仕え、一益の没落後に後北条氏に仕えたとも)というが、晩年の消息は詳しくわかっていない。なお、子には景広の他にも同名の「北条高広」がおり、彼は上杉氏に帰参したものの越後の所領を取り戻すことはできず没落したという。