台湾人日本兵
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台湾人日本兵(たいわんじんにほんへい)は日本が台湾を領有していた時代に、日本軍の軍務に服した台湾人。台湾籍日本兵ともいう。日本政府は本来、外地人には兵役を課していなかったが、太平洋戦争突入により、台湾人に対し1942年4月に志願兵制度、1944年9月に徴兵制度が発足した。
1973年の厚生省援護局資料によれば、1945年8月の終戦までに80,433名の台湾人が軍人となり、126,750名が徴用されて軍属(軍夫)となった。合計207,183名の台湾人軍人軍属のうち、戦死者は30,304名である。
朝鮮では1938年2月から陸軍特別志願兵令が施行され、志願兵制度が始まったが、台湾で陸軍特別志願兵制度が始まったのは1942年である。ただ、1937年秋には台湾総督府が軍夫の徴用を開始している。海軍志願兵制度は1943年に朝鮮と同時に開始された。1944年までの3年間に約6,000名の志願兵が前線に送られ、そのうち先住民の約1,800余名が高砂義勇隊を編成している。
戦局の悪化にともない、1944年9月に台湾でも徴兵制が施行され、1945年3月には衆議院議員選挙法が改正され、台湾人の国政参加の道が開かれたが、終戦により台湾での衆議院議員選挙は実現しなかった。
3万人余りの台湾人戦死者のうち、26,000人は東京の靖国神社に祀られている。また台湾の新竹県北埔郷にある済化宮には33,000人の台湾人日本兵(行方不明者を含む)を祀っている。この中には先の中華民国総統李登輝の兄・李登欽(日本名:岩里 武則)も含まれている。
1987年9月に議員立法で台湾人戦没者遺族等への補償が決定され、日本政府は1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金を支払った。しかし日本人戦死者遺族に対する補償とは大きな差があり、台湾ではこれに反発する声もある。
台湾人日本兵としては日本名・中村輝夫、漢名・李光輝が有名である。花連県の台湾先住民アミ族の出身で、本名スニオン。1943年志願兵としてインドネシアのモロタイ島に派遣され、終戦を知らずにジャングルの中で31年も生活し、1974年12月になってようやく発見された人物である。
2005年4月4日、台湾の台湾独立派の政権与党、台湾団結連盟の党首蘇進強が台湾人日本兵が合祀されている靖国神社を参拝し台湾内で論議をよんだ。(zh:2005年台灣團結聯盟參拜靖國神社事件参照)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 伊藤潔『台湾ー四百年の歴史と展望』中公新書