国府台城
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国府台城遠景 | |
通称 |
市川城、市河城、鴻之台城 |
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
太田資忠 |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
堀、土塁、井戸 |
位置 |
国府台城(こうのだいじょう)は現在の千葉県市川市国府台付近にあった城である。城名は「市河城」「鴻之台城」とも。ただし市河城(市川城)に関しては、国府台城東側の真間山(現在の市川市真間)上の弘法寺付近にあったともされ、別の城、あるいは存在時期に鑑みて、元となった城とみる説もある。
太日川(現在の江戸川)と坂川の合流地点に隣接する標高20m~30mほどの河岸段丘上端にあり、南北650mほど東西150mほどの細長い城域で、連郭式の平山城を構えるには適した場所であるといえる。水運にて栄えた市河津を背後に持つ、軍事的・経済的な要所であった。
目次 |
[編集] 城の歴史
扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が1478年(文明10年)12月の千葉氏内紛の際に千葉自胤を援けて下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まる。この際に城地として相応しいと見立て、翌年に臼井城の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らが、この地に城を築いたと記録に残る。
国府台城は要所であるが故に後北条氏、千葉氏と里見氏、太田氏、上杉氏らの度重なる勢力争いの舞台となっており、争奪戦が繰り返され(国府台合戦の項参照)城もまた堅固な城郭として整備された。しかし、豊臣秀吉による小田原征伐後、後北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされた。江戸を見下ろす場所にあったからとも言われている。
[編集] 現在の城
1727年(享保12年)に徳川吉宗によって、関宿からこの地に曹洞宗安国山總寧寺が移され、また太平洋戦争時に首都防衛のための高射砲陣地が設置され(昭和33年9月にこの陣地跡は市立「里見公園」として整備され、桜の名所となっている)たこともあり、城の南半分は原型を留めていない。残りも多くは住宅街となっているが、堀切や空堀、土塁跡はよく残っており、櫓台の跡も確認できる。
[編集] 明戸古墳
国府台城周辺には古代から集落があったらしく、前方後円墳が非常に多くあり、明戸古墳と呼称される。城内の土塁を作る際に、この古墳跡を盛り土代わりに利用している様子が見受けられ、そのために二基の緑泥片岩の箱型石棺が出土したままになっており、現在も野ざらしながら保存されている。