国本社
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国本社(こくほんしゃ)とは、大正後期から昭和初期に存在していた政治団体、右翼団体。平沼騏一郎が会長を務めた。
[編集] 概要
1923年(大正12年)12月に昭和天皇が狙撃された虎ノ門事件が発生し、山本内閣の総辞職に伴い法務大臣であった平沼騏一郎も辞任し、自らの政治活動の拠点として日本国粋主義を掲げ、1924年(大正13年)5月に設立した。事務局は麹町区平河町六番地に置かれた。
平沼の人脈を活かし副会長に東郷平八郎、山川健次郎が就任。官僚では鈴木喜三郎、塩野季彦、小山松吉、後藤文夫、軍人では宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、斎藤実、財界からは池田成彬、結城豊太郎、学界からは山川健次郎、古在由直らが会員となった。五・一五事件後の調査では全国に20万人の会員を擁し、教化団体から実行団体へと移行しつつあり、既成政党からは「一敵国」と見られていた。
『国本新聞』、雑誌『国本』を発行したが、実態としては平沼の政治活動の支援団体の性格もあった。しかし、西園寺公望らからはファシズム思想であるとして注視された。
1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生し、枢密院副議長を務めていた平沼が議長に昇格する際に会長を辞任。それと同時に国本社も解散した。
[編集] 起源
国本運動は田沼時代に松平定信によって提唱され、維新当時には岩倉具視が「国本七箇条」を朝廷に献策している。 1889年に創刊された雑誌「日本及日本人」と並び、1890年創刊の雑誌「国本」は国本主義を鼓吹した。しかし、その後は外来思想・社会主義思想が台頭し、東大には新人会が出来て新思想の根幹となり、国本主義は衰退した。この新人会を反日本思想と見た者たちは「興国同志会」を起こし、国本運動を再興した。さらに竹内賀久治・太田耕三が奔走し、「興国同志会」を「国本社」と改称して平沼騏一郎を顧問に迎え、機関紙「国本」を発行した。
[編集] 参考文献
- 「愛国団体一覧表」出版地・出版者・出版年未記載。ガリ版。90頁。24cm。オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵。