鈴木喜三郎
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鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、慶応3年10月11日(1867年11月6日)- 昭和15年(1940年)6月24日)は、明治、大正、昭和期の日本の官僚、政治家。旧姓は川島。鳩山一郎は義弟(夫人の弟)にあたる。
[編集] 来歴・人物
司法官僚から、貴族院議員、清浦奎吾内閣の司法大臣、田中義一内閣の内務大臣を歴任し、犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、1932年 - 1937年)を務めた。
慶応3年10月11日現在の神奈川県川崎市に生まれる。明治24年(1891年)東京帝国大学法科を卒業し、司法省に入省する。明治26年(1893年)判事となり東京地方裁判所、東京控訴院、大審院判事を歴任する。地方裁判所長を経て、検事に転じ辣腕家として知られ、「腕の喜三郎」の異名を取った。司法省刑事局長、大審院検事、法務局長を歴任し、大正3年(1914年)司法次官に就任する。大正10年(1921年)検事総長に就任し司法官僚の頂点を極める。また、この間大正9年(1920年)には貴族院議員に勅選されている。
大正13年(1924年)清浦内閣の司法大臣として入閣する。清浦内閣が護憲運動によって倒閣されると、立憲政友会に接近し、大正15年(1926年)政友会に入党した。昭和2年(1927年)田中義一内閣が成立すると内務大臣として入閣する。内相としては特別高等警察の強化、治安維持法の改悪を行い、昭和3年(1928年)日本共産党の一斉検挙、すなわち三・一五事件の指揮を執った。また、大正15年(1925年)に公布された普通選挙法にもとづく最初の普通選挙としての総選挙となった第16回衆議院議員総選挙では、大々的な選挙干渉を行い、野党の立憲民政党側の猛反発と同党選挙革正委員会及び伊沢多喜男の呼びかけによる貴族院を中心とする選挙監視委員会による対抗を招き、選挙後、責任を問われ内相辞任を余儀なくされた。
その後、政友会党内で義弟に当たる鳩山一郎の支援を得て実力者となり、昭和6年(1931年)犬養内閣の司法大臣、内務大臣として入閣した。五・一五事件により犬養首相が暗殺され、後継総裁に選出される。本来であれば政友会総裁として犬養内閣の後継内閣を組織するはずであったが、軍部が政党内閣の継続に反対したために軍人の斎藤実が大命降下を受けた。このため、政友会は斎藤内閣、続く岡田内閣において野党路線を取り続けた。斎藤内閣では党内の意向に配慮して自らは入閣しない形で閣僚を送ったものの、岡田内閣に入閣した高橋是清元総裁ら党内の有力政治家4名を除名処分にした事から党内に亀裂が生じた。更に自身の病気の悪化が党内の亀裂に拍車をかけた。
昭和11年(1936年)第19回衆議院議員総選挙では現職党首でありながら落選の憂き目に遭う。党内からは総裁辞任の声が高まるが、鳩山一郎は鈴木の貴族院議員への再任工作を行って鈴木は貴族院議員に勅選された身であると、議会制民主主義の原則からはずれた強弁で鈴木の総裁居直りを実現させるが昭和14年(1939年)に総裁を辞任する。だが、後継総裁を巡って政友会は事実上分裂してしまい、やがて同党の解体に向かうきっかけを作った。昭和15年(1940年)6月24日没。享年72。
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