堀直虎
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堀 直虎(ほり なおとら)は、江戸時代の大名。信濃須坂藩の第13代藩主。
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時代 | 江戸時代末期(幕末) | |||
生誕 | 1836年9月26日(天保7年8月16日) | |||
死没 | 1868年2月10日(慶応4年1月17日) | |||
諡号 | 良山、丸如斎、知足山 | |||
戒名 | 広顕院殿前小府令祐道靖忠大居士 | |||
官位 | 従五位下、長門守。内蔵頭 | |||
幕府 | 江戸幕府若年寄、外国奉行、大番頭 | |||
藩 | 信濃須坂藩主 | |||
氏族 | 堀氏 | |||
父母 | 父:堀直格 母:西尾忠善の娘・天心院(静子) 養父:堀直武 |
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兄弟 | 堀直武、水野直章、堀直正、 堀直虎、堀直明、堀直徴 |
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妻 | 正室:松平忠固の娘・広閑院 | |||
子 | 養子:堀直明 |
天保7年(1836年)8月16日、第11代藩主・堀直格の五男として江戸で生まれる。文久元年(1861年)11月6日、同母兄で第12代藩主である直武が隠居したため、その養子として後を継ぎ、11月16日に叙任する。そして藩政改革を断行し、家老ら41人を粛清し藩政を大きく改革し、洋式軍制を導入した。幕末期の幕政にも積極的に参与し、大番頭、府中見廻役、呉服橋門番などを歴任した後の慶応3年(1867年)12月5日に若年寄となり、その直後には外国奉行に任命されるなど、幕末期の幕府の要職を歴任して幕政を必死に盛り立てている。
しかし慶応4年(1868年)1月17日、突如として江戸城中で自害して果ててしまった。享年33。
自害の理由は、大政奉還を徳川慶喜に進言した経緯から慶喜や幕府保守派に疎まれていたためとも、幕府を守るために慶喜に徹底抗戦を進言したが容れられず、そのために諫死したとも言われている。ただし勝海舟の手記においては、堀直虎は乱心して自害したと記されている。
後を弟の直明が、養子として継いだ。墓所:東京都港区赤坂の種徳寺。霊廟:須坂興国寺臥竜山頂。
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