大久保秀昭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大久保 秀昭(おおくぼ ひであき、1969年7月3日~ )は、平成期のプロ野球の選手(捕手及び外野手、右投げ左打ち)、コーチであり、社会人野球の監督である。
目次 |
[編集] 人物・来歴
神奈川県出身。桐蔭学園高から慶大に進み、1991年の東京六大学では主将として中軸を打ち、春秋の連覇に貢献。
1992年に日本石油に入社すると、持ち前の強打と巧みなリードで社会人野球界でもたちまち頭角を現し、1年目からレギュラーを獲得。在籍5年の間に社会人ベストナインを4度受賞する名選手となった。
1995年には翌年行なわれるアトランタオリンピックに出場を希望し、ドラフト指名凍結選手となり、希望通り日本代表入り。川村丈夫(現横浜)、杉浦正則(現日本生命監督)らとバッテリーを組み、銀メダル獲得に貢献した。
1996年のドラフトで、近鉄の6位指名を受ける。既に27歳となっており、社会人野球である程度の地位を確立している中でのプロ入りを危惧する声もあったが、大久保はプロ入りを決意。ちなみにこの年のドラフトで近鉄が指名した選手、すなわち大久保の同期には前川勝彦(のち阪神を経てオリックス)、大塚晶文(のち中日を経てパドレス、レンジャーズ)、礒部公一(のち東北楽天)、岩村敬士(現デビルレイズの岩村明憲の実兄)らがいる。
しかしプロ入りしてすぐに大久保は右肩痛に悩まされ、一度もマスクをかぶることはなく、一軍出場は外野手としてのみ。途中から選手登録も外野手として行なわれた。1999年には代打の切り札として活躍するが、翌2000年には成績が急降下し、チームが劇的な優勝に沸く2001年に戦力外通告を受けて引退。現役はわずか5年間であった。2002年は梨田昌孝監督専属広報として活動、2004年からは湘南シーレックスの打撃コーチに就任した。
そして2005年オフ、古巣の新日本石油ENEOS(日本石油から日石三菱、新日本石油を経て改称)から監督就任の要請を受け湘南(横浜)を退団。さっそくその年横浜を戦力外通告された谷口邦幸投手をチーム入りさせるなど、チーム作りに精を出している。
[編集] プロ在籍時の成績
在籍5年、実働3年
年 | 所属 | 背番号 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | 大阪近鉄 | 36 | 一軍出場なし | ||||||||
1998 | 22 | 29 | 4 | 0 | 1 | 1 | 4 | 3 | .138 | ||
1999 | 56 | 59 | 18 | 2 | 10 | 1 | 9 | 10 | .305 | ||
2000 | 5 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | .000 | ||
2001 | 一軍出場なし | ||||||||||
計 | 83 | 95 | 22 | 2 | 11 | 2 | 13 | 16 | .232 |
[編集] 主な表彰
[編集] エピソード
- 奥さんが野球に疎かったため、捕手としてワンバウンドの球を捕球する練習で体にいくつものアザをつくり帰宅した大久保を見て、「ひょっとしてチーム内でいじめられているのではないか」と心配したそうである。
[編集] 関連リンク
近鉄バファローズ 1996年ドラフト指名選手 |
---|
1位:前川克彦 / 2位:大塚晶文 / 3位:礒部公一 / 4位:中濱裕之 / 5位:斎藤義典 / 6位:大久保秀昭 / 7位:岩村敬士 |
カテゴリ: 日本の野球選手 | 慶應義塾大学野球部の選手 | オリンピック野球日本代表選手 | 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 | 野球監督 | 1969年生 | 神奈川県出身の人物