前川勝彦
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前川勝彦(まえかわ かつひこ、1978年9月25日-)は、日本の元プロ野球選手。本名は前川 克彦(読み同じ)。ポジションは投手。大阪府大阪市大正区出身。左投げ左打ち。
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[編集] 経歴
- PL学園高校から1996年ドラフト1位で大阪近鉄バファローズ入団。
- 2000年に克彦から勝彦に登録名を変更。
- 2000年ごろから西武キラーとして頭角を表し、左のエース格に。
- 2001年チーム最多の12勝をあげリーグ優勝に貢献も、好不調の波と相性の良し悪しがはっきりしていたため防御率が5.89と悪かった。日本シリーズでは第4戦で5回1/3を投げ1失点と好投、打撃でも野手並の鋭い当たりを外野に飛ばしていた。
- 2003年ウエスタンリーグ1試合最多失点記録(当時)を作る。8月1軍に復帰した際は1週間で中継ぎで登板し3勝をあげる。
- しかし、その後は思うような成績をあげられず、2004年川尻哲郎との交換で阪神タイガースに移籍。高校時代から打撃も得意で、阪神への移籍時に「的山(哲也)さん(近鉄の捕手)より打率を残してみせる」と発言し、的山は不快感を表した。
- 2005年春、来日したニューヨーク・ヤンキースとの試合で対ヤンキース日本単独チーム初勝利の勝利投手となる。この年はウエスタン・リーグで最優秀防御率のタイトルを獲得した。
- 阪神でも先発ローテーション入りを期待されるが期待されたような成績を出せないまま2005年11月15日、相木崇とのトレードでオリックス・バファローズに移籍。再び的山とチームメイトに。制球難は相変わらずも苦しい場面でのメンタリティーに進境を見せ、11試合に先発。
- 制球力に難あるも、スケールの大きさは多くの人々が認めるところで、無尽蔵のスタミナを武器にもう一度先発での活躍が期待されていた。
- 2007年1月6日午後2時(JST)頃、運転中に横断歩道で自転車の女性と接触し全治1週間の怪我を負わせる。その女性と口論になった際に警察官が現れると逃走。ひき逃げしたとして、大阪府警南警察署は翌7日に前川を業務上過失傷害と道交法違反の疑いで逮捕した。なお、2002年にスピード違反で運転免許を取り消されたままだった為、無免許であった事も判明した。
- 2007年1月7日(逮捕と同日)、オリックス球団は前川を無期限謹慎処分とすることを発表した。その後、同月17日に起訴されたことを受け、翌18日、球団は契約を解除、自由契約とする決定を下した。同日、逮捕から11日ぶりに保釈され、前川は反省の意を込めて丸坊主にしてマスメディアの前で謝罪を行った。
[編集] エピソード
- 高校時代、英語の成績が悪いことを理由に英語の先生に「(評定1に)落とせるものなら落してみろ」抗議したが、そのまま落とされた。この時(と言うより高校時代)、非常にガラが悪くヤクザのような風貌だった。
- 新人時代、二軍戦で気に食わぬことがあり、ベンチにグラブを叩きつけ荒れていたところ、(当時の)二軍監督・梨田昌孝の怒りを買い、鉄拳をくらった。
- 梨田は温厚な性格で知られ、又梨田がチーム関係者に体罰を食わせたのはこの一度きりであった。そのためこの「事件」は前川・梨田の確執が大きく現れた出来事であった。
- 1998年12月1日に予定されていた契約更改をすっぽかし、さらに「今日は11月31日だと思った」と言い訳したため球団関係者が激怒、ペナルティーとして運転免許証を1年間球団預かりにされた。
実は同僚の中濱裕之も一緒にすっぽかしてしまったのだが、今までのイメージからか前川だけがクローズアップされてしまっている。 - 大のプリン好きとして有名。近鉄時代勝利投手となった際、スポーツ紙から実家にインタビューがあり、母親が「あの子の大好物のプリンを用意して待ってます」と答えたことから、前川=プリン好きのイメージが、ファンの間で定着した逸話がある。
- 阪神移籍の理由は、いずれは近鉄に戻すつもりで、近鉄の外で勉強させようとしたが、阪神在籍中に、その近鉄は球団ごと消滅してしまった。結局オリックスに落ち着いた。
- 元来左利きであるが、書道だけは右手を使う。
[編集] 通算成績
(2006年シーズン終了現在)
- 149試合登板 31勝47敗0S 防御率5.26
[編集] 背番号
近鉄バファローズ 1996年ドラフト指名選手 |
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1位:前川克彦 / 2位:大塚晶文 / 3位:礒部公一 / 4位:中濱裕之 / 5位:斎藤義典 / 6位:大久保秀昭 / 7位:岩村敬士 |