大学共通一次試験
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大学共通一次試験(だいがくきょうつうだいいちじしけん)は、1979年(昭和54年)から1989年(平成元年)の間、国立大学及び産業医科大学の入学志願者を対象として共同して実施した基礎学力をみるための共通試験である。試験は、国語、数学、英語、社会、理科の5教科について行われた。実施は、国立大学の共同利用機関であった大学入試センター(現在は独立行政法人)。
[編集] 導入の経緯及び経過
共通テストの構想は1960年代以降文部省やその周辺から発案されていたが、1970年代に入って政府及び与党の推進により実現する運びとなり、国立大学協会の賛同を得て、入試問題の難問・奇問の出題をなくし、「入試地獄」を緩和するために導入されたものである。導入後は、志望校選択への受験産業の介入、大学・学部・学科の序列化が進んだ。なお初代センター長の加藤陸奥雄によれば、フランスのバカロレアをモデルとする意向だったという。
- ある大学においては数十年にわたり「夏目漱石」しか出題しないなど、果たして入学試験として適切なのか疑問は多かった。
- しかしながら小室直樹等からは実施前から失敗を予想され、また時の文部大臣はテレビ番組「時事放談」にて細川隆元等から痛切に批判された。またマークシートによる回答を採用したため、「鉛筆さえ握れば誰でも満点を取れる(可能性がある)」と揶揄された。
その後、1985年(昭和60年)臨時教育審議会第一次答申により「共通テスト」の採用が提案されたのを受けて、1988年(昭和63年)に「大学入試センター試験」と改称することが決定され、1990年(平成2年)から行われるようになった。
[編集] 変遷
共通一次以前は一期校二期校という二区分から各一校ずつ受験できたものを、国立大学は一校のみの受験とした。当初の試験科目は五教科七科目(社会・理科は2科目選択)で1000点満点であり、また自己採点により一次試験での点数を自己把握できるようにした。
- しかしながらこれにより偏差値序列化が進んだという批判がある。
1980年、前年の社会の選択科目のうち「倫理・社会」「政治・経済」の平均点が他の科目より高かったことから、この2科目の同時選択を禁止。
1984年、国語の現代国語の1問に使用されたテキストが、事前に河合塾の全統一次試験でも使用されたものであったことから、「問題を的中させた」として話題になる。河合塾での問題作成者は牧野剛。また、社会の「政治・経済」に日本の防衛政策を問う出題があり、解釈の分かれる政治問題を入試に出すことの是非が一部で論議を呼ぶ。
1985年、高等学校の学習指導要領変更に対応して、新旧両課程の科目で試験を実施(旧課程は翌年度まで)。新課程での受験者は社会の「現代社会」と理科の「理科Ⅰ」が選択必須とされる。また、数学で正解となる数字が存在しないときに使用する「*」が正解に含まれる問題が複数出題され、「米騒動」とも呼ばれた。
注 例えば、解答欄が「アイウ」でありながら実解は-1であるとき、マークシートには「-1*」とマークすることになる。これにより、理論上は解答欄の桁数から解を想像するという受験技術が排除されうることになる。
1987年、前年に中曽根政権の下で決定された改革による新制度で試験が実施される。この改革は
- 五教科七科目から五科目800点満点に変更(「現代社会」、「理科Ⅰ」の削除)
- 自己採点方式を廃止し、一次試験願書とともに二次試験受験願書も出願する形式にする
- 一校受験からABグループによる複数受験を認めた。公立大学はCグループとした
- 定員の一部の募集を保留しC日程後に二次募集分として募集する方式を認める
- 大学の裁量により傾斜配点を行うことができる。
という内容だった。しかしこれにより、
- 受験科目減少により、大学入試に不要な科目(「現代社会」、「理科Ⅰ」)を別科目に置き換える高校が続出した。所謂未履修事件はこのときからすでに発生しており、ここ数年来の問題ではない。「現代社会」と「理科Ⅰ」はわずか2年で事実上受験科目から外されることになった。
- 東京大学がBグループであったのに対し、京都大学がAグループであったため、受験生が奪われると京都大学が反発し、定員の一部をBグループにする方法が取られ(法学部は全定員をBグループで実施)、当初から複数受験の足並みは崩れることになった。
- 傾斜配点により、一部の大学では事実上一次試験の点数を評価しない大学が出現した。
- 受験動向を読みきれず、二段階選抜後の実倍率が極端に低くなる例が多数発生した。
- 事前出願制にしたため逆に、一次試験終了後、合格圏まであと何点必要であり、それは達成可能なのかを知るべく多くの受験生が予備校に走り、受験産業が潤った。
という弊害が発生した。
1988年、前年の問題を解決すべく、事前出願を廃止し従前どおりの一次試験後の出願に切り替えられた。また京都大学の主張を支持する大学が増えたため、前期日程と後期に分割し前期日程に合格し、入学したものはA日程・後期日程を受験できない分離分割方式を導入した。
- 分離分割式を実施しても先に試験を実施した方が「有利」であるため、前期日程への定員配分増加は阻止できず、事実上の一校受験化を招いた。つまり何のことはない、定員一部留保二次募集型に各大学が切り替わっただけである。
1989年、受験科目の平均点が著しく異なるという事例(「物理」・「生物」受験者が圧倒的不利)が理科で発生。前代未聞の点数調整が行われる。また「数学Ⅰ」で正解が無限に発生する事態が生じた。共通一次試験としては最後の実施となったが後味の悪い結果となった。
1990年名称を大学入試センター試験に変更。