大田昌秀
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生年月日 | 大正14年(1925年)6月12日 |
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出生地 | 沖縄県久米島具志川村 |
出身校 | シラキュース大学大学院修了 |
学位・資格 | - |
前職・院外役職(現在) | 沖縄県知事 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
参議院外交防衛委員会 沖縄北方特別委員会 イラク・事態特別委員会各委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
比例区 |
当選回数 | 1回 |
所属党派(現在) | 社会民主党 |
党役職(現在) | |
会館部屋番号 | 参・議員会館212号室 |
ウェブサイト | 沖縄から、時代をつくる |
大田 昌秀(おおた まさひで、1925年6月12日 - )は、沖縄の政治家。元沖縄県知事で、社会民主党の参議院議員。琉球大学名誉教授。沖縄県久米島町出身。
琉球大学教授時代はメディア社会学を専攻し、新聞研究・報道研究等に従事。沖縄県知事在職中には沖縄における米軍基地問題に積極的に取り組んだ。第2期目から反軍反戦反基地姿勢を明確にした。1995年に軍用地の代理署名を拒否した際には直前に起きた米兵の幼児強姦事件とともに大きな注目を浴びたが、1998年の知事選挙では経済の停滞や度重なる公約違反により、知花昌一ら大田支持層からも反目され落選した。
参院議員転身の際、社民党から比例区で立候補したため、知事時代支持・支援していた沖縄社会大衆党や日本共産党からは強い反発がある。2007年夏の参院選以後も議員を続ける意思を強めていたが、本部より公認を外されたため、立候補できず引退となる予定である。後継は元読谷村長山内徳信。
[編集] 経歴
- 1945年(昭和20)- 沖縄師範学校本科2年時、学徒隊の鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に参戦
- 1946年(昭和21)- 沖縄文教学校卒業
- 1948年(昭和23)- 沖縄外国語学校本科卒業
- 1954年(昭和29)- 早稲田大学教育学部英文学科卒業
- 1956年(昭和31)- 米シラキューズ大学大学院修了(社会学専攻)、琉球大学財団に勤務。
- 1963年(昭和38)- 東京大学新聞研究所にて研究
- 1968年(昭和43)- 琉球大学法文学部教授就任
- 1978年(昭和53)- フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任
- 1990年(平成2)- 琉球大学辞職。11月18日の第6回沖縄県知事選挙に出馬、現職西銘順治を破り当選。石垣空港建設反対を公約にしていた。
- 1994年(平成6)-11月20日、任期満了に伴う第7回沖縄県知事選挙で当選(2期)。
- 1998年(平成10)-11月15日、任期満了に伴う第8回沖縄県知事選挙で稲嶺惠一に敗れ落選。
- 2001年(平成13)- 7月29日第19回参議院議員選挙(比例区・社会民主党)当選
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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