大野右仲
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大野右仲(おおの うちゅう、天保7年12月8日(1837年1月14日) - 明治44年(1911年)6月11日)は、幕末期の唐津藩士で、新選組隊士。頭取。後、陸軍奉行添役。
唐津藩士大野勘助の長男に生まれ、安政3年(1856年)、21歳より昌平坂学問所で学ぶ。
戊辰戦争が勃発すると、藩主小笠原長行に従って会津へ入る。5月始めごろには、旧友で当時越後長岡藩の筆頭家老にまで登りつめていた河井継之助のもとに居り、長岡藩が中立堅持の末、小千谷談判の決裂により新政府軍との開戦に至る現場に居合わせた(『史談会速記録』)。療養中の土方歳三を訪ねて戦況を調査した後、仙台で新選組に入隊。榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。
箱館政権(蝦夷共和国)下では、陸軍奉行並に就任した土方歳三直属の部下となり、二股口の戦いから、箱館総攻撃に至るまで土方の補佐役を務めた。
降伏後、新政府に出仕。明治4年久美浜県権参事、豊岡県権参事。ほか、千葉、長野、青森各県の要職を歴任する。また箱館戦争の記録(『函館戦記』)を書き残す。
明治44年、死去。享年76。
[編集] 土方歳三の戦死
著書『函館戦記』によれば、大野は明治2年(1869年)5月11日、千代ヶ岡陣屋で箱館市中に向かう土方歳三を目撃して、共に一本木関門へ向かった。箱館港では旧幕府軍蟠竜丸が新政府軍朝陽丸を轟沈せしめたため、土方に命じられて弁天台場方面へ進撃。敗走する兵が続出していたが、大野は「奉行(土方歳三)が、敗走兵を必ず関門で食い止めてくれる」と信じていたと言う。しかし、敗走兵の留まる様子が無いことに驚いて千代ヶ岡陣屋へ引き返したところ、同役の大島寅雄・安富才助らから土方の戦死を知らされた。
大野はその後、弁天台場で新選組隊士らと共に降伏したとされるが、異論もある。