天文の乱
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天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文年間の1542年から1548年までの6年間、伊達稙宗と伊達晴宗との間で発生した伊達氏の内紛。洞(うつろ)の乱とも呼ぶ。
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[編集] 経緯
天文年間初頭、勢力拡大を図る稙宗は三男・実元を越後の上杉氏へ養子に出そうとした。だが、越後ではこれに反対する本庄房長らが挙兵する。この反乱は鎮圧されたものの、その後稙宗は越後国内の反対派に対抗するため、実元に屈強な家臣100名を随行させることにした。だが、この状況を見た長男・晴宗は越後国内の争乱に対する危惧と伊達氏家臣団の弱体化を恐れてこれに強く反対し、それが原因で父子相克の内紛が発生することとなる。
1542年、晴宗が稙宗の幽閉を計画する。だが、程なく稙宗は幽閉先から脱出して縁戚関係にある諸大名に救援を求めた。
この伊達氏の内紛は、相馬氏や最上氏をはじめとする東北諸大名を巻き込む大乱となった。ちなみに戦いの経緯においては、緒戦は稙宗側が優勢であったが、次第に晴宗側が巻き返して1548年、稙宗が強制的に隠居させられて晴宗が家督を継ぐことで終焉した。
しかしこの内紛により伊達氏の勢力は衰退し、服属していた最上氏に独立されることとなる。さらに内紛で勝利したとはいえ、晴宗に対して反感を持つ家臣も少なくなく、伊達氏はこの内紛により、その後の勢力拡大が大きく遅れることにもなった。
これに対して、越後側では実元を養子に迎える事に失敗した上杉定実が子供を残さずに死去したため、守護代の長尾景虎(後の上杉謙信)が越後国主の地位を獲得して名実ともに戦国大名としての地位を築く事になった。
[編集] 対立構図
[編集] 後日談
半世紀後、伊達実元の子・伊達成実が主君である伊達政宗との対立から伊達氏を出奔して浪人となった。上杉謙信の養子・上杉景勝は成実の武勇を惜しんで上杉氏(旧守護代長尾氏)への仕官を勧めた。だが、成実は「どうして自分が家来筋に仕えなくてはならないのだ」と取り合わずに、後に政宗の元へ戻っていった。これは、実元が定実の後を継いでいれば、長尾氏が越後の支配権を得る事も越後上杉家の本家である上杉宗家の家督を得る事も出来ず、今頃は実元の嫡男である成実が長尾景虎(上杉謙信)の養子・景勝を家臣として召抱える立場になっていた筈であり、本来は家臣の立場であるべき景勝から禄を貰う積もりは無いと言う一種の皮肉である。
[編集] 関連項目
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