桑折西山城
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桑折西山城(こおりにしやまじょう)は、戦国時代の伊達氏の居城。現在の福島県桑折町に存在する。
JR桑折駅の西部の丘陵一帯が城跡で、東西1km、南北500mの規模をほこる。平成2年(1990年)国史跡に指定された。
[編集] 歴史
伝承によれば、文治5年(1189年)の奥州合戦の戦功によって、伊達郡を与えられた常陸入道念西が居を構えたと言われている。また、応永年間(1400年頃)に伊達政宗が鎌倉公方に背いて立て籠もった赤舘もこの西山城と言われている。
天文元年(1532年)、伊達稙宗は居城を梁川城(福島県伊達市)から桑折西山城に移した。西山城が現在の規模に築城されたのはこの時である。稙宗はそれに先立って陸奥国守護に任じられており、西山城は文字通り陸奥国守護の府城となった。天文5年には分国法「塵芥集」も制定されている。
しかし、天文11年(1542年)、稙宗の三男・伊達実元の越後上杉氏への入嗣問題を巡り、稙宗の嫡男・晴宗が稙宗を西山城へ幽閉するという事件が起きた。この事件を契機に、伊達氏は稙宗方と晴宗方に分かれて内紛状態になり、さらには南東北の諸大名も巻き込んだ大規模な内乱状態となる(洞の乱)。この内乱は約7年続いたが、この間西山城では何度も両軍の攻防戦が展開された。戦況はしだいに晴宗方が優位となり、天文17年(1548年)に将軍足利義輝の命によって両軍は和睦し、晴宗が伊達氏家督を継いで稙宗は丸森城(宮城県丸森町)に隠居した。また、晴宗も居城を米沢城(山形県米沢市)に移し、西山城は破却された。
[編集] 構造
西山城は、東側から高舘・中舘・西舘といわれる3つの郭を中心とした数カ所の郭によって構成され、城の北面から東面へ流れる産ヶ沢川は天然の堀となり、城から川にかけては急崖となっており、まさに天然の要害である。比較的緩やかな傾斜となっている南側には家臣の屋敷地があった場所と思われ、現在は観音寺という伊達氏ゆかりの寺が残っている。また、西舘の南には枡形虎口、周囲には石塁が残されている。